エラベノベル堂

客席ごとの祝祭曲

全年齢

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2章 / 全10

五月に入ると、青葉高校の練習は目に見えて変わった。基礎合奏のあと、篠崎は必ず誰かを客席役として別の場所へ立たせた。前列の真ん中、後方の隅、壁際の通路。演奏する側は楽譜と指揮だけを追っていては足りず、聴く側はただ上手い下手を言うだけでは許されない。どこで、何が近く、何が遠く、どの旋律が光って、どの和音が沈むのか。言葉にする練習が、音を出す練習と同じ重さを持ちはじめていた。 「今の二十小節目、中央だとクラリネットが主役みたいに聞こえるけど、右端だとホルンの影が先に来る」 澪がそう言うと、ホルンの二年生の真壁が少し驚いた顔をした。 「影って、悪い意味じゃないよな」 「違う。むしろ、その影があるから旋律が浮く」 そんなやり取りが増えるたび、音楽室の空気は少しずつやわらかくなった。以前の青葉は、正確さの言葉に強かった。縦をそろえる、音程を合わせる、バランスを整える。もちろんそれは今も大切だ。けれど篠崎が持ち込んだのは、その先にある会話だった。自分にどう聞こえたかではなく、相手にはどう届いたのかを想像すること。澪はそれが、演奏よりもずっと難しいと知った。 昼休み、廊下の窓辺で譜面を見ていた澪は、打楽器の杉本とフルートの小野寺が低い声で話しているのを聞いた。 「結局さ、どれだけ頑張っても、決まった学校が上に行くって毎年言われてるじゃん」 「今年も県の連盟役員の出身校が有利だって、先輩が言ってた」 冗談めかした口調だったが、笑いは続かなかった。その噂は澪も知っていた。審査員の好み、演出の順番、名門校への見えない追い風。実力だけでは届かないものがあるのではないか。そういう不安は、口にした瞬間に部全体へ染みていく。 その日の終礼前、篠崎は珍しく指揮台に上がらず、部員たちと同じ床に立った。 「噂は僕も聞いています」 ざわめきが止む。逃げずに言ったことが、かえって部員を静かにした。 「不満を持つのは自然です。でも、そこで音楽まで疑い始めたら、いちばん損をするのは自分たちだ」 篠崎は黒板の客席図を指先でなぞった。 「審査員席だけを狙う演奏はできます。たぶん、いままでならそのほうが賢い。でも僕たちは、ここ全部に届くものを作りたい。正面の一列目にも、二階席の端にも、後ろの扉の近くにも、何かが残る演奏をしよう。もし本当に偏りがあるなら、なおさら、取りこぼされない音にするしかない」 強い言葉ではなかった。けれど、澪の胸にはまっすぐ落ちてきた。抗うのではなく、狭さそのものを越えていく。篠崎らしい考え方だと思った。 その後の合奏で、自由曲の中間部を通したときだった。左から右へ受け渡される木管の旋律に、遅れてホルンが夕映えのような和声を重ね、最後に打楽器のひと打ちが空気の輪郭を結ぶ。篠崎は振り終えたあと、しばらく何も言わなかった。 沈黙のなかで、澪ははっきり感じていた。勝てるかどうかはまだわからない。けれど、自分たちはもう、同じ音だけを目指しているわけではない。違って聞こえることを怖がらず、その違いごと音楽に変えようとしている。その手応えが、まだ名前のつかない自信として、部員たちのあいだに静かに芽を出し始めていた。

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