エラベノベル堂

客席ごとの祝祭曲

全年齢

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10章 / 全10

全国大会当日の朝、澪は会場の外に立った瞬間、空気の密度が昨日とは違うことに気づいた。開場前から人が集まり、強豪校の名札を下げた生徒たちや、遠方から来たらしい保護者、関係者が入り混じっている。そのざわめきの中で、青葉の名前も確かに囁かれていた。期待と好奇、そして値踏みする気配。その全部を吸い込みながら、澪は楽器ケースの持ち手を握り直した。 本番直前、篠崎はもう長い話をしなかった。 「いつも通りでいい」 ただそれだけ言って、少し笑う。 「ただし、いつも通りっていうのは、狭くならないことだ」 その言葉に、部員たちは静かにうなずいた。勝ちたい気持ちは全員にあった。それでも今日ここで手放してはいけないものが何かも、もう誰も間違えなかった。 舞台へ出る。照明の向こうに広がる客席は、暗くても広さだけはわかる。中央の並び、左右の端、二階席、最後列。澪は席の一つ一つを数える代わりに、そこに耳があることだけを思った。 篠崎の指揮で、最初の音が生まれる。 まっすぐに飛ぶ芯のある響き。その下で低音がゆっくりと床を広げ、木管の旋律が左右へ橋を架けるように渡っていく。中央では輪郭が立ち、端では色がにじみ、後方では和声が遅れて胸の奥へ沈んでいく。澪はクラリネットを吹きながら、自分の音が一つの正解になるのではなく、誰かの中で別の景色をひらく鍵になればいいと願った。 中間部でホルンが影のような柔らかさを差し込み、打楽器が空気そのものの形を整える。会場は静かだった。静かすぎて、音楽が客席の隅々へ染みていく速度まで感じられる気がした。澪はふと、審査されているという感覚を失っていた。いま自分たちは、ただ渡している。この広い空間の全部へ、ここまで積み上げてきたものを。 最後の和音が高くほどけたあと、ほんの一瞬、何の音もしなかった。その空白が、いちばん深い手応えだった。 次の瞬間、拍手が起きる。正面だけではない。横から、二階から、後方から、ばらばらに始まった音が大きな波になって重なっていく。澪は頭を下げながら、胸の奥が熱くなるのを止められなかった。他校の生徒たちが立ち上がっているのが見えた。関係者席でも、ためらいがちながら拍手が続いていた。 結果発表までの時間、ロビーでは奇妙な空気が流れていた。順位予想の声より、演奏の聞こえ方を語る声のほうが多い。前で聴いた人、後ろで聴いた人、端で聴いた人が、それぞれ違う感想を口にしている。そしてその違いを、否定ではなく面白さとして受け取っていた。 発表のとき、会場は張りつめた。全国金賞、青葉高校。どよめきは起きたが、すぐにそれを追い越すように拍手が広がる。澪は息をのんだ。やった、と叫びたいはずなのに、先に胸へ来たのは別の感情だった。 だが予想外だったのは、そのあとだった。審査委員長が閉会の挨拶で予定にない言葉を口にしたのだ。今年は客席全体への伝達という観点について、委員内でも議論があった、と。会場がざわつく。続けて、今後は審査基準と席配置の公開方法を見直すと告げた。 勝ったから変わったのではない。変えざるをえないほど、会場が先に動いていた。 帰り道、金賞の実感よりも、その言葉の重さが澪の中に残っていた。篠崎はトロフィーを見つめる部員たちの横で、静かに笑っている。 「結局、勝敗より大きいものを取ったな」 澪はうなずいた。自分たちは名門校として勝ったのではない。違いをそろえるのではなく、違うまま響かせることを信じて、会場の空気ごと動かしたのだ。音楽は机の上の点数だけでは終わらない。その当たり前を、ようやく本当に知った気がした。 ホールを出ると、冬に向かう乾いた風が頬をなでた。振り返った先の建物の中には、まだ無数の席がある。そのどこかに、自分たちの音の残り香が、別々の美しさのままで残っている気がした。

検閲済みプロット

全国大会常連の高校吹奏楽部を舞台に、聴こえ方に独自の感覚を持つ新任指揮者が『客席の位置ごとに印象が変わる編曲』を武器に、名門校に有利な不公平な審査慣行へ挑む青春音楽ドラマ。努力、信頼、音楽の可能性を描く一般向けの物語。

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