「行きます」 悠がそう告げた瞬間、舞台袖の暗がりがひとつ浅くなった気がした。足元の黒い床には、さっきまでの緊張がまだ熱のように残っている。部員たちは譜面を抱え直し、互いの呼吸を盗み見るようにしてうなずいた。 未來が小さく唇を結ぶ。 「……やるしかない、って顔ね」 「ええ。ここからは、座る場所で音が変わるのを、隠さずに見せます」 「見せるって、そんなに簡単じゃないでしょ」 「簡単じゃないから、意味があるんです」 悠は指揮棒を軽く握り直した。舞台の向こうからは、客席のざわめきが薄い膜みたいに伝わってくる。前方の空気は近く、後方の空気は広い。どちらにも届くように、白嶺は今日まで何度も並びを変え、受け渡しを確かめてきた。 「前方の席では、主旋律を木管が受ける。後方では、金管に渡る。覚えてますね」 「覚えてる」 「でも、順番を変えるってことは、聴こえ方が違うってことだよな」 誰かの呟きに、悠は短くうなずく。 「違っていいんです。むしろ違わなければ、今までの練習は嘘になります」 未來が目を上げた。 「嘘、って言い方はきつい」 「すみません。でも、本当にそうです。座席ごとの印象を変えるためにやってきたのに、どこでも同じに聞こえたら、僕らは何を積んできたんでしょう」 その言葉に、部員たちの指先が少し強くキーを押さえた。 舞台袖の奥で、合図の待機灯が赤く灯る。ひとり、またひとりと息を整える音が重なる。悠はその音を聞きながら、ふっと視線を下げた。 「僕の耳は、完全じゃありません。だから、皆さんの耳を信じます」 未來が何か言いかけて、やめた。代わりに、まっすぐ前を見て楽器を構える。 「……その代わり、絶対に置いていかないで」 「もちろんです」 返事は静かだったが、確かな温度があった。 次の瞬間、ステージの明かりが袖へ差し込んでくる。白嶺の列が、その光を浴びて輪郭を持った。悠は一歩前に出る。 「では、始めましょう」 そのときだった。客席のざわめきの中に、わずかに異なる反応が混じる。前方で息をのむ気配、後方で遅れて揺れる空気。同じ一音を待つ沈黙なのに、どこかで違う準備が進んでいるようだった。 悠の目が、ほんの少し細くなる。 「……来ましたね」 未來が小さく眉を寄せる。 「今の、何」 「いえ。なんでもありません」 だが、悠の声はほんの少しだけ硬かった。舞台の上で最初の和音が立ち上がる寸前、会場のどこかが、演奏の形を先に知っているように揺れていた。
客席ごとの祝祭曲
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