エラベノベル堂

市場基準点異聞

全年齢

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1章 / 全10

六月の終わり、雨の切れ間を縫うようにして、僕は父と錦葉市場へ向かった。駅から少し歩くだけで、空気の匂いが変わる。青果の青い湿り気、魚屋の塩、揚げ物の油、乾物の甘い埃っぽさ。屋根の低いアーケードに入ると、外の曇り空が急に遠くなり、代わりに蛍光灯の白さが床の水たまりへ細く伸びていた。 市場は来年、再開発で姿を変えるらしい。父はそのための現地調査に関わっていて、今日は区画の確認と基準点の測量に来たのだという。仕事道具の入ったケースを肩にかけた父は、いつもの家より少しだけ無口だった。僕は僕で、古地図を持ち歩ける日が来たことに胸が高鳴っていた。防水のクリアファイルに挟んだのは、図書館で複写した昭和二十四年ごろの町割り図だ。 おまえ、邪魔になるなよ、と父は言った。 わかってるよ。見るだけだから そう言いながら、僕はもう見ていた。市場の床に貼られた区画番号、柱の位置、通路の折れ方。古地図の上ではまっすぐなはずの通りが、現実ではほんの少し、誰かが指先で押したようにずれている。 最初は、戦後の混乱で適当に建て直した名残だと思った。でも、魚屋の角から総菜屋まで数えていくと、そのずれは一か所ではなかった。三軒おきに半間ほど、規則的にずれている。偶然にしては揃いすぎている。 父、ここ、地図と合ってない 父は測量機を据える手を止め、僕の持つ古地図をのぞきこんだ。眉が少し動く。 古い図面なら誤差はある でも、ずれ方が変だよ。ばらばらじゃなくて、並んでる 父は何も言わず、市場の中央通路を見渡した。その目つきが仕事のものから、少しだけ別のものへ変わるのを僕は知っている。気になるものを見つけたときの顔だ。 そのとき、近くの漬物屋の奥から、しわがれた声が飛んできた。 坊主、地図なんぞ好きか 振り向くと、樽の横に腰かけた老人が、茶色い湯のみを片手に笑っていた。店先には刻んだ大根の匂いが満ちている。父が軽く会釈すると、老人は当然のように話へ加わった。 そのずれに気づいたのは、おまえで何人目だろうな。昔から言うんだよ、この市場は腹にもう一つ道を隠してるって 腹に道 共同金庫さ 老人は声を潜めた。終戦のあと、店を焼かれた者も、身寄りをなくした者もいた。銀行なんて当てにならない時代に、市場の人間が少しずつ金や証文や大事な品を持ち寄って、みんなで守る箱を作ったという。場所は誰にも明かさず、区画の取り方だけに印を残した。そういう話だ、と。 ほんとかどうかは知らん。だが、昔の旦那衆は口が堅かったからな。知ってるやつほど、知らんふりをしたもんだ 父は市場の床に打たれた小さな金属標を見つめた。測量の基準点だ。古びた真鍮の縁に、靴先が何度も当たったような傷がついている。 仕事の邪魔になる話ですよ、と父は言ったが、その口調には否定より慎重さが混じっていた。 仕事ってのは線を引き直すことだろう。でもな、昔の線には、消すと困る事情が埋まってることもある 老人の言葉が、市場のざわめきの底へ沈んでいく。威勢のいい呼び声、包丁の音、自転車のベル。その全部の下に、もう一つ別の層がある気がした。見えないけれど、たしかにここに残っている時間の層だ。 父は僕から古地図を受け取り、現在の区画図と並べた。 今日の調査が終わったら、写真も見比べてみるか いいの あくまで仕事のついでだ ついでという言い方が、少しだけうれしかった。僕はうなずき、市場の曲がり角をもう一度見た。たしかにそこには、まっすぐ進むだけでは辿り着けない何かがある。雨上がりの光がアーケードの端から差し込み、床の区画線を淡く浮かび上がらせる。その白い線は、ただ店を分けるためだけのものには見えなかった。まるで誰かが、未来の誰かに向けて残した、読みかけの手紙のようだった。

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