エラベノベル堂

市場基準点異聞

全年齢

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2章 / 全10

その日の調査が終わるころには、市場の照明が夕方の色に負けはじめていた。父は事務机を借り、管理組合の古い帳簿と再開発前の整理資料を並べた。紙はどれも湿気を吸って波打ち、めくるたびに乾いた匂いが立つ。僕は古地図、父は現在の図面、そして机の端には市場開設から何度か撮られた集合写真が積まれていた。 帳簿には店名と区画番号、会費、修繕費の記録が几帳面に並んでいる。けれど昭和二十年代のある数年だけ、番号の振り方が変だった。一番、二番、三番と素直に続かず、四番の次に六番が来て、少し離れて五番が現れる。書き間違いにしては何度も同じ癖が出ていた。 これ、飛ばしてるんじゃない。わざとずらしてる 僕が言うと、父は写真の上に定規を置いたまま目を細めた。 区画の改編で欠番は出る。でも、この市場は妙だな。欠けた番号の位置が、地図のずれた場所と近い さらに古老の話を聞くため、僕らは翌日も市場へ通った。豆腐屋の女将は、戦後すぐは店と店の境に白い石灰で印を引き、その線を動かすときは必ず世話役が立ち会ったと言った。乾物屋の老人は、真ん中の通路だけは見た目より広く取る決まりがあったと教えてくれた。荷車のためだけじゃない、集まるための幅だ、と。 話をつなぐうち、父の表情はますます複雑になっていった。会社からの電話が入るたび、声は低くなる。再開発の工程は待ってくれない。測量士としては、曖昧な昔話より、今ある線を正確に確定するのが仕事だ。それでも電話を切ったあと、父は無意識に古写真へ手を伸ばしていた。 夜、家の食卓で父は珍しくビールの缶を開けたまま黙っていた。 仕事なら、余計なことは調べないほうがいいの 僕が聞くと、父は少し笑った。 余計かどうかが、まだわからないんだ。線はただの境目じゃない。誰が、何のために引いたかで意味が変わる その言葉を聞いて、僕は昼に見た写真を思い出した。市場の開業記念らしい一枚で、人が何十人も並んでいる。最初は顔ばかり見ていたけれど、家で拡大してみると、足元の敷石に不自然な切れ目があった。通路の中心線と直角に交わる短い継ぎ目が、何枚かおきに繰り返されている。しかも、欠番の区画と並ぶ場所だけ、その間隔が少し広い。 父、これ、文字みたいじゃない 僕はノートに通路と区画線を書き写し、長い線と短い線に置き換えて見せた。父は椅子を引き寄せ、しばらく無言で図を見たあと、鉛筆で古地図の上に点を打っていく。 区画のずれ、欠番、敷石の継ぎ目。別々じゃなくて同じ規則か 父は市場の現在図をトレーシングペーパーに写し、古地図に重ねた。ずれた線だけを拾うと、中心通路を軸に左右へ折れる形が浮かぶ。まるで誰かが方角を示した矢印を、店の並びに紛れこませたみたいだった。 暗号だ 思わず声に出すと、父はうなずいた。だがその顔に、手放しの興奮はなかった。 もしそうでも、勝手に現場を掘るわけにはいかない。期限もある。俺は調査の責任者じゃないしな でも、見つけなきゃ消えちゃうかもしれない 父は答えず、窓の外を見た。雨の名残が街灯をぼかしている。しばらくしてから、独り言みたいに言った。 消す前に読む。それくらいは、線を扱う人間の礼儀かもしれないな 翌朝、市場の中央通路に立つと、昨日までただの床だった区画線が、もう違うものに見えた。店を分ける印ではなく、誰にも悟られないよう折りたたまれた言葉。再開発の告知紙が柱でかすかに揺れる下で、僕と父は同じ線の先を見ていた。謎はようやく形を持ちはじめ、同時に、残された時間の短さもはっきりと輪郭を現していた。

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