エラベノベル堂

市場基準点異聞

全年齢

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1章 / 全10

朝の市場は、まだ眠気を引きずったように静かだった。魚を並べる台も、青果のカゴも、開店前の薄い光の中で輪郭だけが先に浮かんでいる。そんな通路を、中学生の朝比奈悠生は古地図の写しを片手に歩いていた。 「父さん、本当にこっちで合ってるの?」 「測る前から疑うな。ほら、線の癖を見ろ」 父の朝比奈岳は、巻尺を肩に掛けたまま、床の端へ視線を落とした。市場の東口に近い通路は、今の区画図ではまっすぐなのに、足元の敷石はわずかにうねっている。再開発のための立入調査だと言われても、悠生にはその歪みが気になって仕方なかった。 「古地図だと、この辺の通路、もっと狭いんだよね」 「そうだ。今の線と少しずれる。けど、完全に消えたわけじゃない」 岳はしゃがみ込み、石の継ぎ目を指でなぞった。市場の古い区画と今の通路が、ぴたりと重ならない。そのずれ方が、ただの工事の名残には思えなかった。 悠生は周囲を見回し、ある店先で足を止めた。敷石の一枚だけ、角が不自然に欠けている。いや、欠けたというより、誰かが意図して残したような切れ目だ。 「父さん、これ」 「ん?」 「ここ、変だ。目地の形が……印みたいに見える」 岳が立ち上がり、悠生の示した場所を見た。石の表面に、薄く擦れた記号のようなものがある。風化で読みにくいが、ただの傷ではない。戦後の資材不足のころ、急いで残された合図にも似ていた。 「なるほどな」 岳は低く言った。 「古い区画の端に、後から目印を足したのかもしれない」 「何のために?」 「それを今、調べるんだろ」 悠生は古地図を握りしめた。紙の上の線は、ただの昔の街並みに見える。けれど、目の前の石と重ねると、何かが隠れている気がした。市場を守りたいという気持ちが、胸の奥で小さく熱を持つ。 岳は線を引くように手を伸ばし、通路の端から端までを目で追った。 「このずれは偶然じゃない。誰かが残した道筋だ」 悠生はその言葉に、ぞくりとした。古い市場は、もう終わった場所じゃない。まだ読めていない続きがある。彼は敷石の切れ目を見つめ、そこに眠るものの輪郭を、ほんの少しだけ感じ取っていた。

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