壁の文字を見たあと、しばらく誰も口を開けなかった。懐中電灯の光だけが通路をゆっくりと滑り、名前の列をなぞっては奥へ消えていく。 「……この先だ」 岳が低く言った。だが、その声には確信だけでなく、何かを確かめ直す慎重さが混じっていた。 悠生は喉を鳴らし、足元に視線を落とす。古い床板の継ぎ目が、ところどころわずかにずれている。さっきまでの道案内が、入口を開けるためだけではなく、その後の歩き方まで含んでいたように思えた。 「父さん、印の順番……」 「覚えてるか」 「うん。敷石の切れ目、丸印、欠けた一マス、頭文字、五つの地点」 「それに、地図の誤差だ」 岳は通路の壁際にしゃがみ、測量図を広げた。紙の上に引かれた線と、目の前の通路の向きが、ほんの少しだけ噛み合わない。 「最初からぴったり合っていなかった。おかしいと思っていたが、これは誤差じゃない。意図的に残した遊びだ」 「遊び?」 「鍵に必要なずれだ。全部の印を、同じ向きで揃えるんじゃない。ずれを合わせた時だけ、扉が動くようになってる」 悠生は思わず振り返った。あの倉庫の床下で見た、朽ちた木と歪んだ継ぎ目が頭に浮かぶ。店ごとに分けられた手がかりも、この通路も、最初から一つの仕掛けだったのだ。 「じゃあ、さっき開いたのは、まだ半分ってこと?」 「そうかもしれないな」 岳は淡々と言ったが、目は鋭いままだった。 悠生は壁の名前を見上げる。誰かの暮らしが、こんな薄暗い場所に丁寧に残されている。その事実が胸の奥を打った。 「こんなものを隠して、何を守ろうとしたんだろう」 「たぶん、金じゃない」 岳は立ち上がり、懐中電灯を少し高く掲げた。 「だが、まだ全部は見えていない。奥に何があるか、確かめる必要がある」 その時だった。悠生はふと、壁の名前の並びの中に、見覚えのある区画の記号が混じっているのに気づいた。さっきまでただの記録にしか見えなかった文字が、ひとつの流れを示しているように見える。 「父さん、これ……」 「気づいたか」 岳の声が少しだけ低くなる。 「どうやら、この先はもっと古い記録に繋がっているらしい」 悠生は息をのみ、暗がりの奥へ目を凝らした。開いたばかりの鉄扉の向こうで、冷たい空気がまた静かに動く。そこにはまだ、見えていない何かが待っている。
市場基準点異聞
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