エラベノベル堂

市場基準点異聞

全年齢

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8章 / 全10

翌朝、父はいつもより早く市場へ向かった。会社と管理組合、それに再開発の担当部署へ連絡を入れ、倉庫脇の床下に旧構造物の可能性があるとして、保存確認を兼ねた立ち会いを取りつけたのだ。僕が追いついたときには、中心通路の基準点のまわりに細い白線が引かれ、乾物屋の主人や漬物屋の老人まで集まっていた。市場じゅうが、息を潜めているみたいだった。 父は仕事の声で説明した。基準点から読み取れるずれ、欠番の順、古写真に残る白線、倉庫内の寸法差。それを一つずつ積み上げるほど、ただの思いつきではなく、長く折りたたまれた記録だと伝わっていく。年配の担当者は腕を組んだまま黙っていたが、最後に、小さくうなずいた。 床板一枚だけ、確認しましょう 許可が出ると、空気が少し変わった。壊すというより、封筒の端をそっと開くような緊張だった。職人が工具を差し入れ、倉庫の隅の板を慎重に持ち上げる。乾いた木のきしみのあと、下からひんやりした空気が上がってきた。穴は大きくない。人が入れるほどでもない。ただ、石で囲われた浅い空間の奥に、黒ずんだ金属の箱がぴたりと収まっていた。 誰かが息をのんだ。 箱は想像していたほど豪華ではなかった。角の丸い鉄の箱で、錆びを帯び、取っ手も片方は動かない。それでも、そこにあるだけで市場の時間が一度止まったみたいに見えた。父はすぐには触れなかった。管理組合長へ視線を送り、立ち会いの全員がそろってから、手袋をつけて持ち上げる。重さは金塊のせいではなく、積み重ねた年月のせいに思えた。 錠は古く、無理にこじ開ける必要もなかった。劣化した留め具を外すと、蓋は意外なほど静かに開いた。 中にあったのは札束でも宝石でもない。油紙に包まれた帳面、店名の書かれた封筒、何枚もの写真、小さな布袋、欠けた簪、銀色のスプーン、そして寄せ書きのように名前が連なる一冊のノート。最初の頁には、震える字でこう記されていた。 困る者へ回すこと。店の別なく、先に明日のない者へ 僕は胸の奥をぎゅっとつかまれた。共同金庫は、噂どおりの財産庫でありながら、それ以上のものだった。見舞金の記録、学費の立て替え、戦後に身元のわからなくなった持ち主の品を預かる覚え書き。品物は返却のために、記録は誰かを助ける順番を間違えないために、ここへ納められていたのだ。 漬物屋の老人が、箱の中の古い写真を見て目を細めた。 ああ、これ、うちの親父だ 乾物屋の主人は無言で封筒の表をなぞった。そこには今はもうない店の名前が並んでいる。消えたと思っていた店たちが、箱の中でまだ隣り合っていた。 父は記録係として淡々と中身を確認しながら、途中で一度だけ手を止めた。ノートの末尾に、測量点を示す簡単な図があったからだ。市場の真ん中に小さな丸、その横に短い文が添えられている。 真ん中をずらすな。真ん中が皆のものだから守れる 父はその頁をしばらく見つめ、それから僕を見た。いつもの仕事の目でも、家の父の目でもない、少しだけ遠くまで見える目だった。 おまえが最初にずれに気づかなかったら、間に合わなかったな 僕はうまく返事ができず、ただ基準点のある通路を振り返った。何度も踏まれた小さな丸は、もう秘密の印ではなくなっていた。でも消えたわけでもない。市場の真ん中で、これから先も、誰のための線かを静かに問い続ける気がした。再開発は進む。それでも、この箱が見つかったことで、残すべきものは建物の形だけじゃないと、ここにいる全員が知ったのだ。

8章 / 全10

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