金属扉の向こうは、思ったより広かった。懐中電灯の光が届くたび、壁際の棚や木箱がぼんやりと輪郭を現す。湿った空気の底に、紙と油の古い匂いが沈んでいた。 「これが……金庫室?」 悠生は小さくつぶやいた。だが、目の前に積まれているものを見て、すぐに首を横に振る。金塊の鈍い光を探していたはずなのに、そこにあるのは帳簿と束ねた紙、寄付の記録、そして厚い封のまま残された誓約書だった。 「金じゃない」 岳が静かに言う。 「……帳簿だ」 悠生は近づき、箱の中をのぞき込んだ。紙面には、米、布、板材、炭。そんな文字が並んでいる。誰がどれだけ出したか、誰が足りない分を肩代わりしたか、細い字でびっしり書かれていた。 「こんなの、宝物って言っていいのかな」 「いい。むしろ、こっちが本物だ」 そのとき、背後の通路から足音が響いた。 「やっぱりそこか」 振り向くと、工事を急ぐ男が暗がりに立っていた。さっきまでとは違い、余裕のない顔だ。目だけが、棚の上の書類へぎらつくように向いている。 「価値のあるものを持っていく。余計なものは置いていけ」 「余計じゃない」 悠生は思わず前に出た。 「これを見てください。市場は、こうやって助け合って立ち直ったんです。記録こそ、本当の財産です」 男の眉がわずかに動く。だが、すぐに唇を結んだ。 「綺麗事で工事は止まらない」 「止まります」 岳が言い切った。測量機器を脇に置き、工事図面を広げると、指先で不自然な線を叩く。 「この計画、区画の境界処理が粗い。地下の空洞を見落としている。上だけ整えても、下が持たない。今のまま進めれば危険だ」 男が顔をこわばらせる。 「勝手なことを」 「勝手なのは、歴史を無視して急ぐことだ」 岳は一歩も引かなかった。 「これは保存に切り替えるべきだ。残す価値がある。いや、残さなければならない」 悠生は帳簿を見た。誓約書の端に、震えるような筆致で書かれた一文がある。焼け跡から市場を立て直す、と。 胸の奥が熱くなる。 「父さん……」 「わかってる」 岳は短く答えた。男はなおも何か言い返そうとしたが、言葉が続かない。金の在処を隠したかったのではない。市場が持っていた約束そのものが、ここにあるからだ。 悠生は静かに帳簿へ手を伸ばし、閉じた。 「これ、持っていかれたら終わりだよ」 暗い金庫室に、紙を閉じる小さな音だけが落ちた。男はその音を聞き、初めて足元を見た。
市場基準点異聞
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