エラベノベル堂

無音域を越える灯

全年齢

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1章 / 全10

最初に違和感を覚えたのは、遠心分離機の音だった。北極圏の海底観測ステーションに配属されて八か月、私は機械の唸りや配管を流れる水の震えを、もう自分の呼吸の一部みたいに聞き分けられるようになっていた。だからこそ、その朝、培養室の扉を開けた瞬間に胸の奥がざわついた。いつもなら耳の裏にまとわりつく低い振動が、薄い布を一枚かぶせたように弱まっていたのだ。 気圧計も酸素濃度も正常。停電の兆候もない。なのに、廊下を歩く同僚の靴音まで、妙に遠い。私は壁に手を当てた。金属の冷たさは変わらないのに、そこに宿るはずのかすかな震えが吸い取られている。 観測ステーションアウルは、海面下三百メートルの岩盤に固定された小さな箱庭だ。外には夜のように暗い海が広がり、ときおり探査灯に白い粒が流れていく。閉じた世界では、音は安心の証でもある。ポンプの作動音、換気の風切り、調理区画から響く食器の触れ合い。それらが急に頼りなくなると、空気まで薄く感じられた。 私の担当は海底堆積物に棲む微生物の解析だった。昨日、資源探査チームから回された泥状試料の中に、見慣れない群体があった。透明に近い膜のような集合体で、染色しても輪郭がぼやける。私は保存していたスライドを顕微鏡に載せ、再び焦点を合わせた。 視野の中で、それは昨夜より明らかに増えていた。細い糸のようにつながりながら、ガラス面に沿って広がっている。増殖速度が異常に速い。しかも培養器の振動を強めると動きが活発になり、止めると膜の厚みだけが残る。半信半疑のまま簡易センサーを近づけると、微弱な振動エネルギーが不自然な落ち方を示した。 まるで、食べている。 自分で浮かべた言葉に、背筋が冷えた。細菌が振動を吸収するなんて、論文の端にだって見た覚えがない。私は記録端末にデータを打ち込み、主任のハンセンへ送信した。ついでに設備管理のミラにも、配管内部のサンプル採取を依頼する。数分後、ミラから短い返信が届いた。換気フィルターにぬめりあり、確認中、と。 その時、天井のスピーカーが一度だけ鳴り、すぐに息切れしたみたいに黙った。通常連絡の予告音だ。続くはずの館内放送は来ない。代わりに、どこか遠くで金属を引っかくような音がして、それも水に落ちた火の粉みたいに消えた。 私は培養室を飛び出した。通路の向こうからハンセンが早足で来る。口が動いているのに、声が霧の向こうから届くように弱い。彼は苛立った顔で携帯端末を振った。 「通信が落ちた」 ようやく聞き取れた言葉は、それだけだった。中央制御室への内線も、海上支援船への回線も応答なし。壁面パネルの受信ランプは点滅しているのに、音声はひどく痩せて、途中でほどけてしまう。 その瞬間、ステーション全体が巨大な雪に埋もれたような錯覚に包まれた。機械は動いている。照明もある。命をつなぐ装置はまだ息をしている。なのに、世界から音だけが引き潮のように遠ざかっていく。 私は端末を握り直し、培養室の顕微鏡画像をハンセンに見せた。彼の眉間に深い溝が刻まれる。ミラから二通目のメッセージが届いたのは、その直後だった。 配管内も同じものがいる。増え方が変。早く来て。 読み終えるより先に、館内の非常灯が一瞬だけ赤くまたたいた。警報が鳴るはずの場面で、何も聞こえない。その沈黙だけが、何より鮮明に異常を告げていた。

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