エラベノベル堂

無音域を越える灯

全年齢

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2章 / 全10

設備管理区画へ向かう通路で、私ははじめて本格的な不安の顔を見た。医療担当のユナが非常灯を見上げたまま唇を噛み、調理区画のレオンは聞こえない警報の代わりに壁を何度も叩いていた。叩く音さえ、厚い氷の下に沈んだみたいに鈍い。閉じた基地では、声が届かないだけで人はこんなにも疑い深くなる。誰かが電力系統の故障だと言い、誰かが外壁に亀裂が入ったのではと身振りで訴える。私は端末の画面を掲げ、顕微鏡画像と振動の減衰グラフを見せた。説明しても、半分は伝わらない。言葉が途中でちぎれるからだ。 ミラは配管パネルを外し、懐中灯で内部を照らしていた。金属の継ぎ目に、透明な霜のような膜が這っている。だが温度は低くない。彼女が工具の柄で軽く叩くと、細かな震えがそこへ吸い込まれ、膜がごく淡く脈打った。私たちは顔を見合わせた。生きている、という確信だけが嫌にはっきりした。 ハンセンは制御室から持ち出した平面図を作業台に広げた。細菌は換気経路と給排水の細い管を足場に、基地全体へ広がっているらしい。音を使う設備ほど影響が大きかった。館内放送、警報、音声回線、さらには一部の流量計まで値が乱れはじめている。振動を前提にした監視系統が、見えない布で包まれたように働かないのだ。 このままでは、異常が起きても誰にも気づけない。ハンセンはそう言って、脱出用ポッドの起動手順を確認しようとした。しかし格納区画の認証は中央制御室を経由しなければ通らない。しかもポッドの始動確認には音声応答式の診断系が含まれている。冗談みたいな話だった。最も静かになってほしくない場所から順に、基地は沈黙していく。 私は観測ログを洗い直した。資源探査チームが海底下層へ試験振動を入れた時刻、その後の培養室での増殖曲線、換気流量の微細な低下。ばらばらの点を結ぶと、細菌は単に振動を吸うのではなく、一定以上の揺れが続く環境で増殖を加速させているように見えた。ならば逆に、増殖しにくい条件があるはずだ。 私はミラに頼み、未汚染区画のフィルター片と配管の結露水を集めてもらった。ユナには薬品庫から消毒用の試薬を運んでもらう。レオンは筆談用のホワイトボードを配り、短い合図を決めた。声の代わりに、光を二回で集合、一回で停止。幼稚な方法でも、今はそれが秩序になる。 試料を並べた簡易実験で、細菌の膜は薬剤だけでは縮まらず、冷却だけでも変化が鈍かった。だが、ある温度帯で試薬を加えた時だけ、膜の縁がほどけるように崩れた。私は息を呑み、条件を変えながら再現を試みる。まだ弱点と呼ぶには早い。けれど、初めて向こうに傷をつけられた気がした。 同時に、脱出用ポッドを起動させる道筋も見えはじめていた。中央制御室までの経路で、どこが最も侵食され、どこにまだ手が入るか。観測データを重ねると、中央区画へ通じる補助ダクト周辺だけ汚染の進みが遅い。温度管理の癖が違うからかもしれない。私は平面図の上に指を走らせ、皆を見た。聞こえなくても、目だけで伝わるものがある。 行ける。そう思った瞬間、天井の照明が一列だけかすかに明滅した。誰かが制御室の向こうで動いたようにも見えたが、もちろん何の音もしなかった。静寂はますます深く、けれど私たちの手の中には、ようやく対抗するための細い糸が残っていた。

2章 / 全10

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