補助ダクトへ入る前に、私たちは作業台の上で最後の確認をした。ホワイトボードには矢印と時刻、光信号の回数、薬剤の配分が簡潔に並ぶ。声があてにならない以上、迷いはそのまま事故になる。ハンセンは中央制御室の手前で電源系を確認し、ミラは配管の遮断弁を操作する。ユナは温度管理の補助と試薬の噴霧、レオンは後方で経路確保。私は観測端末を持ち、細菌の反応を見ながら進む役目を引き受けた。 補助ダクトは人が這って進めるぎりぎりの幅しかなく、金属の内壁は冷えた皮膚のように汗をかいていた。懐中灯の光が当たるたび、隅に張りついた透明な膜が鈍く光る。近くで見ると、それは水滴ではなく、細い糸の束が幾重にも重なった薄布のようだった。肘を動かすたび、その振動を待ち受けているように膜の縁がゆるく波打つ。私は息を殺し、端末の表示を睨んだ。振動吸収値は中央区画へ近づくほど上がっている。まるで基地の心臓へ根を伸ばしているみたいだった。 ダクトを抜けた先の保守通路は、さらに異様だった。非常灯は点いているのに、空間そのものが音を忘れている。いつもなら足裏に返ってくる床の反響がなく、誰かと並んで歩いている感覚さえ薄い。レオンが後方を振り返って何か言ったが、口の動きだけで意味はわからない。代わりに彼は親指を立て、先へ進めと合図した。 中央制御室手前の配管集合部では、膜がほとんど半透明の苔のように膨らみ、継ぎ目を覆っていた。ミラが弁のハンドルに手をかけても、手応えがおかしいらしく眉をひそめる。私はユナに目配せし、試した条件に近い温度まで管表面を落とすよう示した。冷却パックが押し当てられると、膜は一瞬だけ縮み、その隙にユナが試薬を噴霧する。すると表面が曇り、凍った窓に爪を立てたような細い亀裂が走った。完全ではない。それでもミラが全身を預けると、固着していた弁がゆっくり動いた。 その直後、制御室側の照明が大きく明滅した。端末の数値が跳ね上がる。中央区画の送風が乱れ、眠っていた群体が一斉に目を覚ましたのだとわかった。壁面の通気口から透明な膜が垂れ、床を這うように広がってくる。私は咄嗟に携行灯を二度振った。集合の合図。皆が制御盤前に集まり、ハンセンが手順書を広げる。音声認証を飛ばすため、保守モードへ入る隠し手順を使うしかない。 制御盤のボタンを押す指先が、妙に遠く見えた。警報灯は赤いのに、鳴っていない。その不自然さが、かえって心拍だけを大きくする。私は観測ログと現在値を照らし合わせ、汚染の薄い系統を選んで電力を回した。ハンセンが認証コードを入力し、ミラが補助電源を接続する。ユナは崩れかけた膜へ追加の試薬を吹きつけ、レオンは通路に非常灯を並べて帰路の印を作った。 やがて、制御盤中央の表示だけが安定して白く灯った。脱出用ポッド格納区画、待機解除可能。その短い文字列を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。だが同時に、通路の先でさらに濃い影がうごめく。中央区画の奥、まだ私たちの見ていない場所に、増殖の核がある。そう直感しながらも、今は立ち止まれなかった。私は白い表示を指で示し、全員にうなずいた。次は格納区画へ向かう。静まり返った基地の中で、ようやく私たちは出口へ続く線をつかみかけていた。
無音域を越える灯
全年齢小説ID: cmnepvgq0000r01nwkce2a4g5
