エラベノベル堂

ぎこちないまま並走中

全年齢

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1章 / 全10

四月の雨は、街の輪郭を少しだけやわらかくする。配属初日の朝、玻璃は濡れた歩道を避けるようにして、再開発区画の端にある古い煉瓦造りの建物へ向かった。外壁には市立景観アーカイブ室と控えめな金属文字が打ちつけられている。観光課と都市整備課の間に挟まれ、誰の目にも中途半端な部署に見えるその場所が、今日から自分の職場だった。 ガラス扉を開けると、紙と埃とコーヒーの匂いが重なって鼻先をくすぐった。先に来ていた職員たちは、それぞれ忙しそうに端末へ向かい、歓迎の言葉もどこか上滑りしている。玻璃は名前を名乗り、ぎこちない会釈を返しながら、机の並びの一番奥へ案内された。そこには既にノートと地図を広げ、誰よりも仕事を始めている男がいた。 深町青司、と課長が言った。今回の企画で君の相棒になる。そう紹介されて、青司は椅子に座ったまま顔を上げた。年齢は玻璃とそう変わらないはずなのに、目元だけが妙に落ち着いている。よろしく、と短く言った声は低く、愛想がないというより無駄がなかった。 今回の企画とは、取り壊し予定の古い商店街を記録し、秋の展示にまとめることだった。写真、聞き取り、古地図の照合。華やかさはないが、街の記憶を拾い集める大切な仕事だと、面接で聞かされた言葉を玻璃はまだ信じていた。青司は現地調査に詳しく、玻璃は編集と構成を任されるらしい。 けれど最初の打ち合わせから、歯車は小さく軋んだ。玻璃が住民への事前説明を丁寧に進めたいと言えば、青司は時間がないから先に足で回るべきだと言う。青司が作った調査表には必要事項しかなく、玻璃の用意した質問案は回りくどいと片づけられた。どちらも間違っていないのに、言葉の置き方が少しずつずれていく。 昼前、商店街の理事長に渡す資料が一部足りないと判明した。印刷担当は青司が受け取ったはずだと言い、青司は共有棚に置いたと答える。だが棚には見当たらない。結局、玻璃が予備データから刷り直して約束の時間に滑り込み、理事長は苦笑いで済ませてくれたものの、戻り道の空気は重かった。 僕が持ったままならそう言いますよ、と青司は歩きながら言った。 別に責めてるわけじゃないです、と玻璃もすぐ返した。だが返した言葉の硬さに、自分で先に傷ついた。責めていないなら、あんな言い方にはならない。 午後の聞き取りでも行き違いは続いた。玻璃が約束を取っていた喫茶店の店主は、青司から先に別件の質問をされて機嫌を損ねた。青司に悪気がないのは見ていてわかった。ただ、彼は相手の沈黙を待たずに次へ進む。玻璃はそれを粗さだと思い、青司は玻璃の足踏みを慎重すぎると思っているのだろう。 夕方、アーカイブ室へ戻ると、窓の外には雨上がりの薄い光が差していた。机に資料を置き、玻璃は息をつく。向かいでは青司が黙々と写真データを整理している。しばらくして、彼は画面から目を離さないまま言った。 午前の件、理事長への説明、助かりました。 玻璃は少しだけ驚いた。謝るでも取り繕うでもない、不器用な礼だった。 こちらこそ、聞き取りの場所の当たり方、参考になりました そう答えると、青司は初めてわずかに口元をゆるめた。笑ったというほどではない。けれど、閉じていた窓がひとつだけ開いたような変化だった。 課長から届いた共有メッセージには、来月の展示案を前倒しで提出せよとある。商店街の取り壊し日程が早まるかもしれないという。猶予は思っていたより少ない。玻璃は自分の端末を開き、青司の地図へ視線を落とした。 明日、北通りから回りませんか。私は事前連絡を入れます。深町さんは現地の動線を見てください 青司は数秒考え、いいですね、と頷いた。短い言葉なのに、今朝よりずっと遠くなかった。 外では、水たまりに夕空が揺れている。新しい場所も、新しい相手も、まだ輪郭が定まらない。ただ同じ地図の上に立っていることだけは確かだった。玻璃は濡れた窓に映る自分たちの影を見て、ようやくこの仕事が始まったのだと思った。

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