エラベノベル堂

すこし先まで同じ歩幅

全年齢

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1章 / 全10

朝の電車は、毎日ほとんど同じ匂いがする。湿ったコート、紙コップのコーヒー、誰かの整髪料。それらがゆるく混ざった空気の中で、私は吊り革を握りながら、窓に映る自分の顔をぼんやり見ていた。寝不足でもなく、機嫌が悪いわけでもない。ただ月曜日の朝というだけで、世界は少しだけ彩度を落として見える。 会社の最寄り駅で降り、いつものように角のベーカリーでサンドイッチを買う。レジの店員が 「いつもありがとうございます」 と言って、私は曖昧に笑った。八階のオフィスに着くと、すでに何人かがパソコンを立ち上げていて、蛍光灯の白さが床に均一に落ちていた。変わり映えのしない景色に、なぜか少し安心する。 「おはよう」 背後から声をかけられて振り向くと、桐島がマグカップを片手に立っていた。入社三年目の同期で、私の隣の席に座っている。人当たりがよくて、誰とでもそれなりにうまくやれるくせに、たまに妙に核心だけをつくようなことを言う人だ。 「おはよう。今日も早いね」 「まあね。昨日、変な時間に寝ちゃって」 桐島はそう言いながら自席に座り、立ち上がりかけた私の机の上を見た。コンビニの新作スイーツの包みが、昨日の帰りに食べたまま置きっぱなしになっている。 「相変わらず、そういうの好きだよね」 何気ない口調だった。からかうでもなく、褒めるでもなく、ただ事実を言っただけの声。私は 「楽だから」 と返して、包みをくしゃりと丸めてゴミ箱に捨てた。 その瞬間、自分でも理由のわからない小さな引っかかりを覚えた。言葉そのものに棘はない。桐島は普段から、私が甘いものをよく食べることも、昼休みにひとりで近くの公園まで歩くことも知っている。今さら気にするほどのことではないはずだった。 なのに、胸の奥にごく薄い紙が一枚入り込んだみたいに、居心地が悪い。 午前中は取引先へ送る資料の修正に追われた。誤字を直し、数字を確認し、上司に回して戻ってきたものをまた整える。その単調さに飲み込まれているうち、さっきの違和感はほとんど消えた。昼休み、社員食堂で日替わり定食を前にすると、向かいに座った桐島が味噌汁をすすりながら言った。 「今週、金曜の飲み会来る?」 「たぶん行くと思う。桐島は?」 「俺はどうしようかな」 そこで一度言葉を切ってから、彼は箸で器のふちを軽く叩いた。 「橘って、なんだかんだ一人でも平気そうだからいいよね」 私は顔を上げた。桐島は定食の焼き魚を丁寧にほぐしていて、こちらを見ていなかった。冗談めいた調子でも、意地の悪い響きでもない。ただ、また事実を並べるみたいな声だった。 一人でも平気。 その言葉は、褒め言葉にも慰めにも聞こえたし、少しだけ突き放されたようにも聞こえた。私は自分がどう受け取ればいいのかわからなくて、笑ってごまかすこともできず、 「どうだろ」 とだけ答えた。 食堂の窓の外では、春の終わりらしい風が街路樹を揺らしていた。柔らかな日差しなのに、葉の裏は思ったより白く、冷たく見える。昔から、何気ない一言を必要以上に引きずるところが自分にはある。相手にそのつもりがないとわかっていても、言葉の輪郭だけがあとに残ることがある。 午後、会議室へ向かう廊下で、前を歩く桐島の背中を眺めながら、私はふと考えた。いつから私は、この人の言葉にこんなふうに立ち止まるようになったのだろう。隣の席だから、毎日顔を合わせるから、それだけでは説明しきれない何かが、気づかないうちに積もっていたのかもしれない。 会議室のドアノブに手をかけた桐島が、振り返って 「資料、持った?」 と聞く。私は慌ててうなずいた。その表情はいつも通りで、朝とも昼とも変わらない。違っているのは、たぶん私のほうだった。いつも通りの一日のはずなのに、見慣れた景色の端だけが、少しずつずれていく気がしていた。

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