エラベノベル堂

すこし先まで同じ歩幅

全年齢

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2章 / 全10

火曜日の朝、私はいつもより早く会社に着いた。昨夜は寝つきが悪く、何度も目が覚めたせいで、体の芯に薄い疲れが残っている。それでも始業前のオフィスは静かで、誰にも話しかけられない時間は少しありがたかった。パソコンを立ち上げ、未読メールを流し見していると、背後で椅子を引く音がした。 「珍しいね、橘が先にいるの」 桐島の声に振り向く。彼はネクタイを少し緩めたまま、コンビニの袋を机に置いた。 「たまたま早く起きただけ」 「へえ」 それだけ言って、桐島は自分の画面を開いた。会話はそこで終わったのに、私はなぜか妙に落ち着かなかった。前なら、このくらいのやりとりは何も残らず流れていたはずなのに、今は小石みたいに心の底に沈む。 午前中、営業部との打ち合わせで資料の説明をしている間も、意識の端に桐島がいた。彼は斜め向かいでメモを取り、必要なところでだけ簡潔に補足する。仕事の呼吸は合う。だからこそ、普段の小さなずれが目立つのかもしれないと思った。 昼休み、同期の野上に誘われて近くのカフェへ行った。サラダの葉をフォークで崩しながら、野上がふいに言う。 「最近、桐島となんかあった?」 思わず手が止まる。 「どうして」 「いや、なんとなく。前よりお互いに遠慮してる感じがする」 遠慮。その言葉は意外なほど腑に落ちた。険悪ではない。避けているわけでもない。ただ、以前なら自然に投げていた言葉を、今はどちらも一度飲み込んでいる気がする。 「別に、何もないよ」 そう答えた声が、自分でも少し頼りなかった。 午後、コピー機の前で資料を揃えていると、桐島が隣に来た。紙の束を受け取りながら、彼は目を合わせないまま言った。 「金曜の飲み会、俺やっぱり行かないかも」 「そうなんだ」 「橘は行くんでしょ」 「たぶん」 短い会話。けれど、そのあとに続くはずだった何かが切り落とされたような感じがした。前なら、じゃあまた今度ランチでも、とか、面倒だから抜けたいんだよね、とか、どうでもいい一言が挟まっていた。今は互いに必要最低限の言葉だけを置いて離れていく。 帰り際、窓の外は薄い雨だった。傘を持っていなかった私は、ビルの入口で立ち止まる。すると後ろから桐島が来て、無言で折りたたみ傘を差し出した。 「駅までなら、一緒に入る?」 反射的にうなずく。肩が触れないぎりぎりの距離で並んで歩きながら、雨粒の音を聞いた。昔から知っているはずの横顔が、今日は少し遠い。 「橘ってさ」 桐島が前を向いたまま口を開く。 「前より、俺に気を使うようになったよね」 胸の奥がひやりとした。そう感じていたのは自分だけじゃなかったのだ。 「桐島こそ」 言ってから、私は小さく息をついた。 「なんか最近、言葉を選んでる感じがする」 彼は少しだけ笑った。でもその笑いは、うまく形にならないまま雨に溶けた。 「選ばないと、変に伝わることあるから」 その一言に、月曜から胸に残っていた薄い紙が、今度ははっきりと輪郭を持った気がした。駅の灯りが濡れた歩道に揺れている。私は傘の縁から落ちる雫を見つめながら、自分が桐島の何に引っかかっていたのか、少しずつわかり始めていた。言葉そのものより、そこに隠れる距離の測り方が、前と変わってしまったこと。その変化が怖いのは、たぶん私が思っていたより、この関係を当たり前にしていたからだった。

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