水曜日の朝、私は少し早く出社した。まだ人の少ないフロアには、空調の音だけが均一に流れている。自分の席に荷物を置いてから、窓際に立って外を見た。曇り空の下で、通勤の列が細く動いている。昨日から何度も考えていた言葉が、まだうまくまとまらないまま胸の内に残っていた。 背後で足音がして、桐島が来た。 「おはよう」 「おはよう」 それから少し間を置いて、私は振り向いた。 「今日、仕事のあと時間ある?」 桐島は一瞬だけ目を見開いて、それから静かにうなずいた。 「ある」 その一日、不思議なくらい仕事は淡々と進んだ。確認事項を送り、修正を返し、会議の予定を入れる。隣の席とのやりとりも必要な分だけ交わした。ただ、以前と違うのは、沈黙が逃避ではなく、夜まで言葉を取っておくためのものだとわかっていたことだった。 終業後、私たちは駅とは反対側の川沿いまで歩いた。春が終わって夏の手前に差しかかる空気は、やわらかいのに少し湿っている。水面にはビルの明かりが揺れていた。 「ちゃんと話す」 私が言うと、桐島は苦く笑った。 「うん」 私は手すりに軽く触れたまま、息を整える。 「異動のことも、住む場所のことも、聞くたびに寂しかった。でもそれだけじゃなくて、私、ずっと桐島に見つけてほしかったんだと思う。平気そうとか、一人でも大丈夫そうとか、そういう見え方じゃないほうの私を」 桐島は何も挟まずに聞いていた。だから私も、もう言葉を濁さなかった。 「好きかどうか、ずっと慎重に考えてた。でも、離れるって聞いて嫌で、知らないところで先に進まれるのが苦しくて、こうしてちゃんと話したいと思う相手は、たぶん一人しかいない」 そこで初めて、桐島の肩から力が抜けるのが見えた。 「それ、期待していいの」 「いいよ」 私が答えると、彼は笑った。ずっと見慣れていたはずの笑い方なのに、どこか初めて見る顔だった。 「俺も好きだよ」 その声は静かで、でも妙にあたたかかった。 「橘が思ってるより、ずっと前から」 川を渡る風が、二人の間を抜けていく。私はようやく、長く胸に引っかかっていた薄い紙が溶けてなくなる感覚を知った。これで終わりではない。むしろここから、前より面倒で、前より正直な関係が始まるのだと思った。 「じゃあ、来月から遠距離だね」 私が半分冗談で言うと、桐島は少しだけ首をかしげた。 「それ、たぶん違う」 「え」 「今日の午後、人事から正式に連絡きた。関西支社の異動、見送りになった」 意味を理解するまで数秒かかった。私は思わず桐島の顔を見る。 「見送りって」 「体制変更。俺、本社残留。代わりに関西の案件だけ担当することになった」 拍子抜けと可笑しさが一度に押し寄せて、私は声を上げて笑ってしまった。あれほど別れを前提に揺れてきたのに、最後の最後で前提そのものがひっくり返るなんて、あまりに不格好だ。 桐島も笑いながら言った。 「昨日言えなかった。ちゃんと気持ちの話を先にしたかったから」 「また黙ってた」 「怒る?」 「少し。でも、前とは違う怒り方にする」 そう言うと、桐島は安心したように目を細めた。離れることで確かめるはずだった気持ちは、離れないまま確かめ直されることになった。予定していた結末とは違う。でもたぶん、そのほうが私たちらしい。 川面の揺れを見ながら、私はそっと息をつく。隣の席の同期という名前はもう前と同じ意味では使えない。それでも明日になれば、私たちはまた同じ電車に揺られ、同じオフィスで仕事をするだろう。ただ一つ違うのは、その当たり前をもう当たり前のままには扱わないことだった。
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何気ない日常の中で、小さな違和感をきっかけに人間関係の変化と心の揺れが描かれる、一般向けのヒューマンドラマ。
