エラベノベル堂

卵焼き迫る、継ぎ味の夜

全年齢

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1章 / 全10

終電を逃したわけじゃない。残業が長引いて、駅前の明かりがまだ遠く感じるだけだった。浩平はコートを脱ぎ捨てるように玄関へ入り、靴をそろえる気力もなく台所へ向かった。冷蔵庫のうなりだけが、部屋の静けさをかき回している。 フライパンを洗いっぱなしにしていなかったことを思い出して、浩平は小さく舌打ちした。仕事帰りに作っておいた卵焼きが、皿の上で三切れ、きれいに並んでいる。自分で焼いたくせに、妙に整いすぎて見えた。 「……疲れてるな」 独り言は、狭い部屋に落ちてすぐ消えた。浩平は箸を取り、ひと切れをつまむ。甘い香りはまだ残っていて、食べれば少しは落ち着くだろうと、そう思っただけだった。 だが、箸先が触れた瞬間、卵焼きの端がごくわずかに震えた。 浩平の指が止まる。見間違いだと思って目をこすったが、皿の上の黄色はたしかに揺れていた。ぷるり、と表面が息をしたみたいにふくらみ、次の瞬間には、端からじわりと形を変える。切り口が崩れたわけじゃない。まるで、食べられるのを嫌がっているみたいに、静かに身をよじった。 「は?」 もう一度箸を伸ばす。今度は慎重に、逃げ道を塞ぐように。だが、先が触れた途端、卵焼きは皿の縁を蹴った。 ぱん、と小さな音がして、黄色いかたまりが床へ跳ね落ちる。 浩平は息を飲んだ。皿は空っぽになっている。代わりに床の上で、卵焼きがころんと転がり、まるでそこにいるのが当然だと言わんばかりに、台所の隅へ寄っていく。 「ちょっと待て……」 追いかけるより先に、背中に冷たいものが走った。こんなもの、卵焼きじゃない。けれど、否定する理由を見つけるより早く、黄色い塊は冷蔵庫の影にすっと潜り込む。浩平は半歩だけ踏み出し、次の瞬間には、その場所を見失っていた。 台所には、洗い残したフライパンと、ひっくり返ったままの皿と、自分の浅い呼吸だけが残っている。浩平は乾いた喉を鳴らし、床の一点を見つめたまま、逃げた卵焼きの行方を追うこともできずに立ち尽くした。

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