エラベノベル堂

卵焼き迫る、継ぎ味の夜

全年齢

小説ID: cmnfe7won003s01qlo5sdllku

2章 / 全10

翌朝、みなと屋の暖簾を出したとき、伊織は夜の出来事を誰にも話すまいと決めていた。けれど、決意は開店一時間ももたなかった。常連の八百屋の夫婦が、味噌汁をすすりながら声を潜めて言ったのだ。昨夜、商店街の端の惣菜屋でも、卵焼きが包み紙の上を這うみたいに動いたらしい、と。昼前には小学生たちが店先で 「動く卵焼きだ」 と囃し、夕方には噂そのものが町の湿った空気に混じっていた。 伊織は居ても立ってもいられず、仕込みの合間に幼なじみの真帆を呼び出した。真帆は駅前の書店で働いていて、昔から伊織の嘘を見抜くのがうまい。裏口から入ってきた彼女は、伊織の顔を見るなり 「寝てないでしょ」 と言い当てた。 事情を話すと、真帆は笑わなかった。怖がりのくせに、こういう時だけ妙に肝が据わる。 「動くのが本当だとしても、理由はあるはず。あんたの店、昔の帳面とか残ってないの」 祖母の遺品なら二階の物置に押し込んだままだ。営業後、二人は埃っぽい階段を上がり、積み上がった箱をかき分けた。古い器の包み紙、仕入れの伝票、色の抜けた暖簾。その底から、油染みの浮いた紺色のレシピ帳が出てきた。角は丸く擦れ、表紙には祖母の癖のある字で、みなと屋覚え書きとある。 煮物、吸い物、漬物の配合が続く中、途中で一ページだけ筆圧の強い走り書きがあった。 心を映す卵焼き。人の気を吸って形を得る。腹を満たすためでなく、胸につかえたものを映すもの。悔い深き者の前では寄る。追うのではなく、向き合わせるために近づく。 伊織はその一文を何度も読み返した。紙の黄ばみより、その言葉の古さが嫌だった。祖母は何を知っていたのか。どうしてこんな大事なことを、自分に一度も言わなかったのか。 「傷つけるためじゃないってことかな」 真帆が呟いた。 「でも、近づかれる側はたまらないね」 その夜、二人は厨房に残って確かめることにした。皿の上には、伊織があえて焼いた卵焼きを一切れ。店の明かりを落とし、手元だけを照らす。時計の針が進む音がやけに大きい。やがて、冷えた空気の中に、ほのかな甘い匂いが立った。卵焼きの端が震え、皿がかすかに鳴る。 来る。 伊織がそう思った瞬間、胸の奥に沈めていたものまで揺れた。祖母の味を再現できない焦り。店を継ぐと口にした日の後悔。逃げ出したいのに逃げられない弱さ。卵焼きはそれに呼ばれるように、じり、と伊織の方へ滑った。 真帆が息を呑む。 「伊織、たぶんこれ、あんたに反応してる」 わかっていた。だからこそ、視線を逸らせなかった。怖いのは動く卵焼きではないのかもしれない。その黄色い小さな塊は、見ないふりをしてきたものの形をして、静かにこちらへ寄ってくる。二人はレシピ帳を握りしめたまま、次の手がかりを探すしかなかった。恐怖はまだ入口に過ぎず、みなと屋の夜は祖母が残した記憶ごと、ゆっくり口を開き始めていた。

2章 / 全10

TOPへ