夜の仕込みがひと段落すると、食堂みなと屋は急に広くなる。客の声が消えたあとの店内には、換気扇の低いうなりと、煮込み鍋の残り香だけがゆっくり漂っていた。伊織は濡れ布巾で調理台を拭きながら、壁の丸時計を見上げた。十時二十分。店を閉めてからもう三十分が過ぎている。 祖母が切り盛りしていたころは、この時間でもどこか温かかった。けれど半年前に祖母が亡くなってからは、同じ厨房なのに、夜だけは別の場所みたいに感じる。明るいはずの蛍光灯が白く冷たく、ステンレスの台は水の底のような色をしていた。 明日の弁当用に、と最後に焼いた卵焼きが一切れ、白い皿の上に残っていた。端が少し崩れている。味見をしようとして、そのまま忘れていたものだ。伊織は包丁を片づけながら、祖母ならこんな半端な置き方はしないだろうな、と苦く思った。祖母の卵焼きは、甘さも塩気も丸く収まっていて、どんな忙しい日でも形が整っていた。自分の作るものは、どうしてもどこか頼りない。 冷蔵庫の扉を閉めた、そのときだった。 視界の端で、皿の上の黄色が、ふっと揺れた。 伊織は手を止めた。換気扇の風だろうかと思ったが、皿は調理台の奥、風の当たりにくい場所にある。見間違いだと片づけるには、妙に輪郭が生々しかった。卵焼きが、自分で寝返りを打つみたいに、ほんのわずか向きを変えた気がしたのだ。 気のせいだ。疲れているだけだ。 そう口の中で言ってみる。声にすると、厨房の静けさに吸い込まれて、かえって頼りなく聞こえた。伊織は皿に近づいた。白い角皿の上で、卵焼きは何事もなかったように沈黙している。表面には照明が四角く映り、じっとしていた。 笑ってしまうほど馬鹿らしい、と息を吐いた瞬間、店内の灯りがちか、と瞬いた。 続けて、もう一度。 蛍光灯の明滅に合わせて、壁や棚の影が伸びたり縮んだりする。古い建物だから、たまに接触が悪くなることはある。そう自分に言い聞かせながらも、伊織の背中には薄い汗がにじんでいた。 三度目の点滅のあと、皿の位置が変わっていた。 ほんの数センチ。けれど確かに、さっきより調理台の縁に寄っている。 伊織は喉の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。自分は皿に触れていない。床も平らだ。皿の裏が濡れて滑ったとしても、こんなふうに、まっすぐこちらへ寄ってくるだろうか。 点滅。 暗くなった一瞬、何かが擦れる、ごく小さな音がした。 明かりが戻る。皿がまた近い。 卵焼きは皿の上で崩れもせず、つやりとした腹をこちらへ向けていた。まるで匂いをたどる生き物みたいに、いや、それ以上に感情のない何かのように、静かに距離を詰めてくる。伊織は一歩下がり、太ももが冷蔵庫にぶつかった。金属の硬さが現実を伝えてくるのに、その現実の中で起きていることだけがひどく場違いだった。 祖母の名前を呼びそうになった。もういないとわかっているのに。 点滅。 暗闇。 次に光が戻ったとき、皿は調理台の縁ぎりぎりにあった。卵焼きの黄色が、ひどく鮮やかに見えた。甘いはずの匂いが、なぜか胸の奥の古い記憶をかき回してくる。失敗した朝、祖母に何も言えなかった夕方、継ぐつもりだと見栄を張った夜。忘れたふりをしてきたものが、薄い膜を破って浮かび上がる。 そのとき、皿がかすかに鳴った。 陶器の底が台を擦り、卵焼きはまた一つ、伊織のいる方へ寄った。 悲鳴は出なかった。ただ、逃げなければならないという考えだけが遅れてやってきて、足先から一気に血の気が引いた。静かな町の、閉店後の食堂で、得体の知れない恐怖は音もなく始まっていた。
卵焼き迫る、継ぎ味の夜
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