浩平は、手紙を握ったまましばらく動けなかった。地下の冷えが、靴底からじわじわと上がってくる。さっきまで壁を埋めていた卵焼きは、もうほとんどただの薄い色の影になっていた。 「……俺は、あれを見なかったんじゃない」 声にした瞬間、自分の喉がひどく乾いているのがわかった。澪が隣で、何も言わずに待っている。その沈黙が、妙にありがたかった。 「見たのに、目を逸らした。誰かが困ってるのも、泣いてるのも、わかってたのに」 浩平は写真を見下ろした。あの夜の台所。割れた皿。小さな背中。そこに写る自分の形が、今になってようやく重くなる。 「ずっと、怖かったんだ。怒られるのがじゃない。俺が何を壊したか、ちゃんと知るのが」 澪が静かに息を吐いた。 「うん」 たったそれだけなのに、胸の奥の何かが少しだけほどけた気がした。 浩平は手紙を胸元に押し当てる。 「だから、逃げるのは終わりにする。失った相手に、できることをする。責任からも、見ないふりからも、もう降りる」 「……やっと言えたね」 澪の声はやわらかかった。浩平はうなずき、深く息を吸う。甘い焼き色の匂いは、まだ完全には消えていない。それでも、さっきまでのような圧迫ではなかった。 そのときだった。 澪が持っていた紙袋が、かすかに揺れた。 「え」 二人の視線が、ほとんど同時に向く。紙袋の口からのぞいていた焼きたての卵焼きが、一切れだけ、ゆっくりと身をよじった。 「……動いた」 浩平の声が凍る。澪も息を呑んだまま、袋を持つ手を止めている。 さっきまで消えたはずの気配が、別の場所で息を吹き返したみたいだった。 「浩平」 澪が低く呼ぶ。 「これ、まだ終わってない」 浩平は紙袋を見つめたまま、背中を冷たいものに撫でられた。自分たちが向き合った恐怖は、ここで終わる種類のものではなかった。別の誰かのところへ、もう移り始めている。 袋の中の一切れが、もう一度だけ小さく震えた。
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卵焼きに襲われる、ホラー要素強めのスリルサスペンス。
