昼の光は、雨上がりの町を思いのほか明るく見せていた。みなと屋の暖簾は乾ききらないまま風に揺れ、店内には味噌汁と焼き魚と、卵焼きの甘い匂いが静かに混ざっている。昨夜のことを知る者も知らない者も、いつも通り腹を空かせて席につき、伊織はそのたびに皿を運んだ。忙しさに手を動かしていると、恐怖は遠い夢のように薄れていく。けれど、ただ忘れてしまうのとは違った。胸の奥に残るものは、もう冷たい棘ではなく、火加減を確かめるための熱に変わっていた。 真帆は昼前に書店へ戻る前、レジ横で振り返って言った。 「今夜、また揺れたら呼んで」 「もう大丈夫だと思う」 「そういう顔してるね」 そう言って笑い、手を振って出ていく。その背中を見送りながら、伊織は少しだけ不思議な気持ちになった。大丈夫だと口にしたとき、無理に強がった感覚がなかったからだ。 昼の混雑が落ち着いたあと、伊織は一人で厨房に立ち、祖母のレシピ帳を開いた。あの頁の文字は変わらずそこにあり、自分の書き足した震える一文も、その下に静かに収まっている。しばらく見つめてから、伊織は帳面を閉じ、棚のいちばん取り出しやすい場所へ置いた。もう物置へ戻す気にはなれなかった。 夕方が近づくころ、八百屋の奥さんが勘定のついでに言った。 「ねえ伊織ちゃん、今日の卵焼き、懐かしいのに新しい味がするねえ」 その言葉に、伊織は思わず顔を上げた。祖母に似ているとも、祖母と違うとも言い切らない、その曖昧さがありがたかった。 「ありがとうございます」 と答えると、奥さんは満足そうに帰っていった。 店を閉めるころには、空はもう茜から群青へ移っていた。伊織は一日の終わりの片づけをしながら、昨夜と同じ厨房にいるのに、見える景色がまるで違うことに気づく。白い蛍光灯、磨いた調理台、伏せた皿。どれも同じはずなのに、今夜はちゃんと食堂のものだった。 最後に、余った卵焼きをひと切れ、小皿にのせる。祖母の仏壇に供える代わりのような気持ちで、奥の棚の上へ置いた。甘い香りがほんのりと立つ。 「今日も終わったよ」 誰もいない店でそう言うと、返事はない。それでも伊織は、前ほど寂しいとは思わなかった。沈黙の中に、聞き慣れた気配がきちんとある気がしたからだ。 戸締まりをして、灯りを一つずつ落としていく。最後に厨房の明かりだけが残る。伊織は振り返り、静かな店内を見渡した。ここでやっていける。いや、やっていくのだと、今度は迷いなく思えた。 そのとき、供えたはずの小皿が、ことりと鳴った。 伊織は目を向ける。皿の上には、さっき置いた卵焼きがない。落ちた気配も、誰かが入った形跡もない。ただ、小皿だけが空のまま、ほんの少しだけ揺れていた。 驚きのあとに来たのは、恐怖ではなく、笑いに似た息だった。 「……そっちかよ」 祖母がようやく満足して持っていったのか、それとも、まだ味見が続くのか。答えはない。けれど空になった皿は、昨夜までの怪異よりもずっとあたたかく、確かな結末に見えた。 伊織は厨房の灯りを消した。暗くなった店の中で、どこかからごくかすかに、陶器の触れ合う音がした。見送るような、せかすような、小さな音だった。 翌朝もきっと、卵を割るところから一日が始まる。
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卵焼きが不気味に迫ってくる、ホラー要素強めのスリルサスペンス。直接的な危害描写は抑えつつ、追われる恐怖と謎解きの緊張感を中心に描く。
