エラベノベル堂

卵焼き迫る、継ぎ味の夜

全年齢

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9章 / 全10

地下へ続く扉は、思ったよりも重かった。浩平が両手で押し開けると、冷えた空気が足首を撫で、焼き油の匂いの下に古い鉄の匂いが混じっていた。階段を数段下りただけで、地上の明るさが遠くなる。 調理室に入った瞬間、浩平は息を呑んだ。巨大なフライパンが中央に据えられ、その縁から壁際まで、卵焼きがびっしりと並んでいた。床にも棚にも、まるで証拠品の整理でもされたみたいに、同じ黄色が静かに積み重なっている。 「……増えすぎだろ」 声は震えたが、卵焼きはもう逃げなかった。代わりに、壁一面を埋めていたそれらが、細かな揺れも見せずに、ただ沈黙している。 澪が小さく息をのむ。 「これ、全部が……記憶の断片みたい」 浩平はフライパンの前で立ち尽くした。見上げるほど大きいその黒い面は、誰かが何度も同じものを焼いた痕跡を残している。胸の奥がざわつく。ここで何かを見た。いや、見なかった。どちらが先だったのか、もう曖昧だった。 そのとき、浩平の口から言葉がこぼれた。 「俺が、あのとき……」 途端に、壁の卵焼きがざわりともせず、音もなく縮んだ。盛り上がっていた輪郭がほどけるように薄くなり、黄の面積がみるみる小さくなる。 「浩平?」 澪が振り向くより早く、床の隙間から何かが滑り出た。封筒だった。色あせた手紙が、ひとりでに転がってくる。その下から、古い写真も一枚、ひらりと現れる。 浩平はそれを拾い上げた。写真には、事故の夜の台所らしき場所が写っている。倒れた皿、散った光、そして端のほうでこちらを見ていない小さな背中。自分だ、とすぐに分かった。だが、もっと気になったのは、写真の隅に立つ大人の輪郭だった。 「……違う」 浩平は手紙を開いた。震える指先で文字を追う。そこには、事故の責任がひとりに押しつけられていたこと、実際に隠されていたのは別の事情だったことが、短い文面で記されていた。 真犯人じゃない。見逃していたのは、そこじゃない。 「俺が見なかったのは……これか」 澪が隣で息を止める。浩平は写真と手紙を見比べ、喉の奥が乾くのを感じた。卵焼きはもう壁を埋めていない。縮みきった黄のかけらが、フライパンの縁に静かに寄り添っているだけだ。 「見なかったから、ずっと……」 言い切れないまま、浩平は床に落ちた写真を見つめた。そこに写る大人の顔は、ちょうど影になっていて判別できない。けれど、手紙が示す真相は、浩平の胸の奥でずっと違う形をしていた過去を、冷たく押し開けていく。 澪が低い声で言った。 「浩平、まだある」 浩平は顔を上げた。縮んだ卵焼きの向こう、使われていない棚の影が、やけに深い。そこに何が隠れていたのか、まだ終わっていないことだけが、はっきりと分かっていた。

9章 / 全10

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