夜明け前の厨房は、嵐の名残をまだ少し抱えていた。換気扇の低い唸り、濡れた庇から落ちる雫の音、使い終えたボウルの縁に残る卵の匂い。そのすべてが、長い夜のあとにだけ訪れる静けさの中で、妙に鮮明だった。伊織は調理台に手を置き、さっき自分で口にした言葉をもう一度胸の内でなぞった。みなと屋は、俺が続ける。その響きはまだ大きすぎる服のようでもあったが、逃げたくなる重さではなかった。 真帆はレシピ帳をそっと閉じた。 「やっと言ったね」 「言わないと、また皿に怒られそうだから」 そう返すと、真帆が短く笑う。その笑い声があるだけで、夜の異様さは少しずつ日常へ溶けていった。 伊織は新しい卵をいくつか並べ、朝の仕込みに取りかかった。殻を割る音は、もう怯えを呼ばない。むしろ店を開ける合図のように軽く響く。祖母の字が並ぶレシピ帳は手元にあるが、伊織は何度も頁をめくらなかった。今は文字を追うより、自分の手の感覚を確かめたかった。卵をほどき、出汁を合わせ、火の上で巻いていく。ひと巻きごとに、昨夜までの迷いが少しずつほどけていく気がした。 やがて、東の空が薄く明るみ始める。雨上がりの商店街は洗われたように静かで、ガラス戸の向こうを新聞配達の自転車が走り抜けた。真帆がカウンターを拭きながら言う。 「朝一番のお客さん、何人来るかな。噂の確認で満席になったりして」 「それなら卵焼き追加だな」 言いながら皿に盛りつけた卵焼きは、昨夜のものより少しだけ形が整っていた。完璧ではない。それでも、みなと屋の朝に置いていい顔をしている。伊織はそのことが嬉しかった。 暖簾を出すころには、空はすっかり明るくなっていた。潮の混じる朝の風が店先を抜ける。最初の客は、いつもの八百屋の夫婦だった。二人は店に入るなり厨房の奥を気にするように見たが、何も言わず席についた。伊織は湯呑みに茶を注ぎ、少し迷ってから、焼きたての卵焼きを小皿で出した。 「今朝の分です」 夫婦は顔を見合わせ、ひと口食べる。奥さんが目を丸くし、旦那が小さくうなずいた。 「うん、いい味だ」 その短い言葉で十分だった。祖母の味だとは誰も言わない。けれど違うからこそ、今の伊織に返ってくるものがある。厨房の奥で真帆が親指を立て、伊織は苦笑しながら次の注文票を取った。 忙しさが戻れば、恐怖の夜はきっと噂話になっていく。けれど伊織にはもうわかっていた。あの卵焼きたちは、消えたのではなく、味の奥へ静かに帰っていったのだ。記憶も後悔もなくならない。ただ、向き合ったぶんだけ、誰かに出せる温かさへ変わっていく。 昼に近づくころ、ふと手が空いて、伊織は昨夜書き足した頁を開いた。未完成でも、向き合えば味になる。その文字の下に、いつの間にか細い油染みがひとつ増えている。伊織は指先でそこをなぞり、そっと本を閉じた。 そのとき、客のいない端の席で、片づけたはずの空皿がひとつ、ことりと鳴った。 振り向くと、皿は陽の中で静かに揺れを止めるところだった。伊織は驚かなかった。怖くもなかった。ただ、祖母がいつもの調子で、まだ見ているよ、と言った気がして、少しだけ背筋を伸ばした。 「はいはい、焦らないよ」 誰にともなくそう呟き、伊織は次の卵を割った。
卵焼き迫る、継ぎ味の夜
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