駅前の喫茶店は、午後になると少しだけ時間の流れが遅くなる。窓際の席に座っていると、通り過ぎる人の靴音までやけにくっきり聞こえた。俺はいつものブレンドを半分ほど飲み、向かいの空席を見た。そこには今朝まで、当たり前みたいに人がいたはずだった。 昨夜の記憶が、湯気みたいに薄く残っている。美咲は笑っていた。笑っていたのに、どこか指先だけが冷えたような顔をしていた。帰り際、また今度と言った声は軽かったのに、約束を結ぶ糸だけが途中で切れてしまったみたいだった。 スマホが震える。美咲からではない。大学時代の友人から、今夜集まると短いメッセージが届いていた。画面を閉じたあと、俺は意味もなく砂糖壺を回した。小さな違和感は、こうしている間にも輪郭を濃くしていく。美咲が最近、連絡を少しだけ遅らせること。会うたびに笑顔はあるのに、目の奥が遠いこと。何かを隠しているのに、隠しきれていないこと。 閉店近くなって店を出ると、駅までの道に夕方の風が吹いた。角を曲がった先で、美咲の姿を見つける。手には紙袋、肩には見慣れない薄い鞄。声をかけようとして、彼女が立ち止まった。視線の先には、封のされた白い封筒が落ちていた。美咲はそれを拾い上げ、俺に気づくと一瞬だけ表情を固くした。 「これ、見た?」 「今、拾っただけだ」 短い沈黙のあと、美咲は封筒を胸元に押し当てた。まるで、薄い紙一枚で何かが崩れるのを食い止めようとしているみたいだった。その仕草が、妙に痛々しかった。 「今日は、少し話せる?」 そう言ったのは俺だったのに、美咲は小さくうなずいただけで、返事の代わりに歩き出した。並んで歩く。いつもなら肩が触れるくらい近い距離なのに、今日は見えない壁が一枚ある。踏み込めば壊れてしまいそうで、俺たちは同じ速度のまま、それぞれの沈黙を抱えた。 公園のベンチに座ると、美咲はようやく封筒を開けた。中には転居の案内が入っていた。知らない地名、知らない日付、そして彼女の名前。俺はそれを見て、胸の奥がひやりとした。 「仕事の都合で、少し遠くに行くかもしれない」 「かもしれない、って」 美咲は唇を噛んだ。言葉を探すみたいに何度も息を整え、それでも最後まで目を合わせなかった。 「まだ決めきれてない。でも、黙ってるのは違うと思って」 その声は、いつもの強さよりもずっと静かだった。俺は返す言葉を失った。日常が音もなく軋む。ささやかな違和感の正体は、遠くへ伸びる未来の影だったのかもしれない。 ベンチの上を、夕暮れの色がゆっくり移っていく。俺はただ、美咲がここにいる理由をまだ知らないまま、知らない振りをすることもできずにいた。
言えなかった朝の手紙
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