エラベノベル堂

言えなかった朝の手紙

全年齢

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2章 / 全10

美咲は封筒を膝の上に置いたまま、しばらく黙っていた。風が公園の木々を揺らし、遠くで子どもの笑い声が跳ねる。そのどれもが、今の俺たちとは別の世界の出来事みたいだった。 「本当は、最初から言うつもりだったの」 美咲がぽつりとこぼした。視線は封筒の端に落ちたまま、声だけが少しずつ輪郭を持つ。 「でも、言ったら終わる気がして。引っ越すかもしれないってだけで、勝手に自分の中で答えを急がれてるみたいで怖かった」 「急がせたつもりはない」 「うん。わかってる」 すぐに返ってきたその言葉に、嘘はなかった。けれど、わかっているのに止められなかったものもあるのだと、彼女の肩が静かに教えていた。 美咲は転居の案内を折り直し、指先で角をなぞった。 「祖母の世話をする人が足りなくて。向こうに移れば、少しは力になれるの。仕事も、今のまま続けられるか見直す必要があるし」 初めて聞く事情だった。俺は自分が何も知らなかったことに気づき、息をのむ。彼女が遠くなる気配を、ただ寂しさだけで見ていた自分が急に恥ずかしくなった。 「言えなかったんだな」 「うん。弱いところを見せたくなかったのかも」 その言い方は少しだけ笑っていて、だからこそ余計に切なかった。美咲はいつも強く見えた。頼れるようでいて、こちらが気を配る前に先回りしてしまう人だった。けれど本当は、誰かに気を許すことそのものを、怖がっていたのかもしれない。 俺はベンチの背にもたれ、夜の気配が降りてくる空を見上げた。 「俺は、勝手に置いていかれる気でいた」 「置いていくつもりはないよ」 その一言は、思っていたよりずっとまっすぐだった。 沈黙のあと、俺はようやく言葉を選んだ。 「行くなら、行けばいいと思う。止めたい気持ちはあるけど、無理に残れとは言えない。でも、黙ったまま遠くに行かれるのは嫌だ。せめて、ちゃんと話してほしかった」 美咲は小さく息を吸って、やっとこちらを見た。その目は揺れていたが、逃げる色はなかった。 「ごめん」 「うん」 「ありがとう」 その二つの言葉だけで、全部が片づくわけではない。それでも、今まで胸に刺さっていた棘が少しだけ抜けた気がした。関係を壊さないために黙ることも、守ることにはならないのだと、ようやく知った。 帰り道、駅前の喫茶店の灯りが見えた。窓際の席には、もう誰もいない。けれど、明日またそこに座れば、今日とは違う空気を吸える気がした。 美咲は少し先を歩き、途中で振り返った。 「まだ決める時間、もらえる?」 「もちろん」 俺が答えると、彼女はほんの少しだけ笑った。夕暮れの名残に染まったその笑顔は、以前よりもずっと近く感じられた。完全な答えはまだない。それでも、隠された事情を知り、言葉を交わした今なら、明日を避けずに歩ける気がした。街灯がひとつ、またひとつ灯り、夜の始まりは昨日よりも少しやわらかかった。

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