エラベノベル堂

言えなかった朝の手紙

全年齢

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10章 / 全10

美咲が遠くへ行ったあと、世界は急に静かになった。駅前の喫茶店に入るたび、窓際の席が少し広く見える。そこへ彼女が座っていた名残だけが、まだ薄く残っている気がした。 出発から一週間。美咲からは毎晩、短い連絡が届いた。今日は祖母の薬を受け取ったこと。仕事の引き継ぎが思ったより大変なこと。知らない土地の空が、思っていたより澄んでいること。長い文章はない。それでも、切れたままではないとわかるには十分だった。 俺も同じように、言葉を選ぶようになった。平気なふりをやめて、今日は寂しかったと打ち明ける。すると美咲は、私も同じとだけ返す。離れているのに、以前よりずっと近い。そんな不思議を、俺たちは少しずつ受け入れていた。 その夜、美咲から珍しく通話が来た。受話器の向こうには、風の音が混じっている。 「急なんだけど、明日帰る」 思わず言葉を失った。戻る予定はまだ先だったはずだ。 「祖母の具合が落ち着いたの。仕事も、ひとまず形になった。だから、少しだけこっちに戻れる」 驚きより先に、ほっとした気持ちが込み上げた。だが、美咲はそこで少し間を置いた。 「でもね、完全に戻るわけじゃない」 その一言で、俺は悟った。彼女は選び直したのだ。逃げるためでも、誰かに合わせるためでもなく、自分の生活を分けて持つことを。 翌日、駅で再会した美咲は、以前よりも少しだけ軽い顔をしていた。荷物は小さい。白いシャツに淡いコート、それだけなのに、どこか別人みたいに見えた。 「おかえり、って言っていいのかな」 俺がそう言うと、美咲は目を細めた。 「ただいま、でもいいし。まだ帰ってきたとは言い切れないけど」 曖昧な言い方なのに、嫌な感じはしなかった。むしろ、そこに嘘がなかった。 喫茶店に入ると、店主が何も言わず二つのカップを置いた。窓際の席には、白い花が一輪だけ飾られている。あの日と同じ色だった。 美咲はそれを見て、少し笑った。 「誰が置いたんだろうね」 「さあな」 本当は、誰かがくれたものではなく、この席に残った時間そのものに見えた。終わったようで終わっていなかった日々が、形を変えて今ここにある。 「ねえ」 美咲がカップに口をつける前に言った。 「前に、戻る場所があるって言ってくれたでしょ」 「言ったな」 「うれしかった。だから、戻る場所を一つにしなくていいって思えた」 その言葉は意外だった。彼女はずっと、ひとつの答えを探していると思っていた。けれど実際には、答えそのものを増やしていたのだ。 「私、こっちにいる間に、ちゃんと決める。どっちかだけを選ぶんじゃなくて、続けられる形を」 俺はうなずいた。美咲はもう、誰かに守られるだけの人ではなかった。自分の痛みも希望も、静かに並べて歩ける人になっていた。 店を出るころには、空が薄く染まり始めていた。春の風が少し冷たい。けれど、前ほど寒くない。 駅の前で立ち止まった美咲は、振り返って俺を見た。 「また、明日も会える?」 「会える」 「じゃあ、今度は黙らない」 「俺も」 短い約束だった。それでも十分だった。 美咲が改札へ向かう背中を見送りながら、俺はふと思う。失うと思っていたものは、案外、別の形で戻ってくるのかもしれない。しかも前より少し強く、少し柔らかく。 夜、ひとりで駅前の喫茶店に入ると、窓際の席には白い花がそのまま残っていた。そこへ座ると、テーブルの上の静けさがやけにやさしい。ブレンドをひと口飲み、俺はようやく気づく。 結末は別れではなかった。終わりでもなかった。美咲は遠くへ行き、そして戻ってきた。だが本当に変わったのは、行ったり来たりする距離を、怖がらずに受け入れられるようになった俺たちのほうだった。 窓の外では、街灯がひとつずつ灯っていく。見慣れたはずの夜が、今日は少しだけ新しい色をしていた。

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