美咲が遠くへ行くと決めた、と聞いた夜から、俺たちの時間は妙に静かになった。喫茶店の窓際に落ちる灯りはいつもと同じなのに、向かいの席にいる彼女の横顔だけが少し違って見える。もうすぐ終わるからではない。終わらせたくないからこそ、言葉が慎重になっていた。 出発まであと一日。美咲は紙袋も封筒も持たず、手ぶらで店に来た。外したマフラーを膝に置き、しばらく湯気を見つめてから口を開く。 「やっぱり、全部を切るのは違うと思った」 その声には迷いがなかった。俺は少し驚き、それから胸の奥に溜まっていた重さがゆっくり沈んでいくのを感じた。 「向こうに行くのは変わらない。でも、連絡を絶つつもりはない。祖母のことも、仕事のことも、私が選んだ形でやる。誰にも遠慮しないで、ちゃんと続ける」 俺はうなずいた。止めたい気持ちはまだあった。けれど、止めることが正しさではないと、もう知っていた。 「黙って行かれるのは嫌だった」 「うん」 「でも、今ならわかる。黙ることが優しさじゃない時もある」 美咲は少しだけ目を伏せた。長く抱えていたものを、ようやく手放せた人の顔だった。 「最初は怖かったの。話したら、あなたに引き止められるか、距離を置かれるか、そのどっちかだと思ってた」 「そんなつもりはなかった」 「わかってる。でも、わからないまま一人で決めるのは、もっと怖かった」 雨の気配が外に残っている。ガラス越しの街はにじんで見えた。俺はカップを持ち直し、迷っていた言葉をやっと口にする。 「俺も、平気なふりをしてた。待つって言いながら、置いていかれることばかり考えてた」 美咲はふっと息を漏らし、初めて安心したように笑った。 「それ、言ってくれてよかった」 その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。守るために黙ることもある。だが、黙っていたせいで失うものもある。俺たちは遅れてそのことを知っただけだ。 会計を済ませ、店を出ると、夜風は思ったより冷たくなかった。駅へ向かう道の途中で、美咲が立ち止まる。 「次に会う日、決めてあるから」 「うん」 「それまで、ちゃんと生きてる」 「当たり前だろ」 そう返すと、美咲は少し泣きそうな顔をしたまま笑った。 翌朝、俺が喫茶店の扉を開けると、窓際の席に白い花が一輪置かれていた。昨日まではなかったはずなのに、不思議と唐突には見えない。店主は何も言わず、ただいつものブレンドを差し出した。 花のそばには小さなメモがある。次に会う日付だけが、短く書かれていた。 俺は席に座り、湯気の向こうの白を見つめる。美咲は遠くへ行く。けれど、それは終わりではなかった。離れることでしか守れないものもあるのだと、ようやくわかったからだ。 窓の外では、朝の光が駅前の舗道を少しずつ明るくしていく。昨日までの違和感は、もう胸を締めつけない。代わりに残ったのは、戻ってこられる場所を信じる静かな確かさだった。日常は元通りにはならない。それでも、元通りにならないからこそ、今日からの景色は少しだけ新しい色を帯びていた。
言えなかった朝の手紙
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