美咲が決める時間をもらいたいと言ったのは、その夜の帰り道だった。駅前の信号が青に変わるたび、車の列が静かに流れていく。俺たちは並んで歩きながら、さっきまでの会話をそれぞれの胸の中で何度も反芻していた。 「一週間だけ、待ってほしい」 美咲は歩幅を少しだけ緩めて言った。言葉は短いのに、そこには迷いだけでなく、覚悟のようなものが混じっていた。 「向こうに行く話、まだ完全に決まったわけじゃない。でも、断るなら断るで、ちゃんと自分で決めたい。誰かに背中を押されるんじゃなくて」 「それで、俺に待ってほしいと」 「うん。勝手かもしれないけど」 俺は苦笑した。勝手なのはどちらも同じだった。言えなかった日々も、聞こうとしなかった日々も、すれ違いの材料には十分すぎた。けれど今は、その材料をどう積み直すかのほうが大事だった。 「いいよ。一週間なら待つ」 そう返した瞬間、美咲の肩から力が抜けたのがわかった。彼女はほっとしたように息を吐き、それから少しだけ視線を落とした。 「本当は、怖かったの。話したら、もう戻れない気がして」 「戻るんじゃなくて、進むって考えればよかったのかもな」 俺が言うと、美咲は小さく笑った。弱い笑い方だったが、今まで見たどれよりも正直だった。 その週、俺たちは毎日少しずつ連絡を取った。長い会話はない。朝に一言、夜に一言。たったそれだけでも、互いの温度を確かめるには十分だった。美咲は祖母の件を改めて家族と話し、仕事の継続も上司に相談したらしい。遠くへ行くことは、逃げることではなく、誰かの暮らしを支えるための選択かもしれない。そのことを知るたび、俺の中の不安は形を変えていった。 そして約束の夜、俺は駅前の喫茶店へ向かった。窓際の席に座ると、いつかと同じ景色なのに、テーブルの上の空気だけが違って見えた。やがて美咲が入ってくる。紙袋も封筒も持っていない。手ぶらのまま、彼女はまっすぐこちらへ来た。 「決めた」 席につくなり、美咲はそう言った。 「向こうへ行く。でも、期間を区切って。全部を手放すんじゃなくて、できる形で続ける。仕事も、こっちとの縁も」 俺は驚いたが、同時に納得もしていた。彼女らしい選び方だった。誰かのために動きながら、自分の足場まで消してしまう人ではない。 「そっか」 「嫌だった?」 「嫌ではない。ただ、少しだけ寂しい」 美咲は目を伏せ、それから確かめるように言った。 「私も。だから、今度は黙らない。寂しいなら寂しいって言う」 その言葉に、ようやく胸の奥の硬さがほどけた。守るべきものがあるからこそ、隠してはいけないことがある。俺たちはそれを遅れて知っただけなのだ。 会計を済ませて店を出ると、夜風は思ったより冷たくなかった。美咲は駅の改札の前で立ち止まり、少しだけ振り返る。 「ねえ」 「ん?」 「遠くに行っても、戻ってきていい場所はあると思ってもいい?」 俺はすぐに答えなかった。言葉にすれば軽く聞こえる気がして、だが黙れば彼女をまた不安にさせる。 「あるよ。ここに」 そう言うと、美咲は泣きそうな顔で笑った。 翌朝、俺がいつもの喫茶店に入ると、窓際の席には見慣れない白い花が一輪だけ置かれていた。店主は何も言わなかった。ただ、カップを置く手つきがいつもより丁寧だった。俺は花を見つめ、昨日までの空白が別の意味を持ち始めたことを知った。日常はまだ続く。けれどその続きには、もう前とは違う約束が静かに根を張っていた。
言えなかった朝の手紙
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