まぶたを開けた瞬間、そこは知らない天井だった。白い石で組まれた高い天井に、青い光を宿した結晶が等間隔で浮かび、静かな湖の底にいるような気配さえあった。息を吸うと、薬草の乾いた香りが肺の奥まで沁みた。俺はゆっくり身を起こし、まず自分の手を見た。若い。見慣れたはずの皺も傷もない。だが、指先に残る感覚だけはやけに鮮明で、書物をめくった記憶、数え切れない文字、星の動き、土の癖、水脈の流れまで、ひと息で思い出せる。頭の奥に、知らないはずの知識が最初から置かれていた。 ここはどこだ。俺は誰だ。 答えを探そうとして、胸の奥に古い名前が浮かぶ。平凡な会社員だった。毎日終電に追われ、休日には惰性で眠り、何かを成し遂げた実感もないまま、静かに人生を閉じた。確かに死んだはずなのに、今は生きている。しかも、ただの生存ではない。体の芯に、乾いた大地へ雨を呼ぶような不可思議な力が流れていた。 「お目覚めですか、大賢者様」 扉の向こうから、若い男の声がした。続いて、黒いローブの青年が深く頭を下げて入ってくる。彼の目は緊張で揺れていたが、その呼び名は揺れなかった。大賢者。どうやら俺は、この世界でそう呼ばれる立場らしい。 「待て。まず状況を説明してくれ」 青年は驚いたように瞬きをし、それから慌てて言葉を並べた。ここは王都に隣接する学匠院の特別棟で、俺は昨夜、長い眠りから目覚めたばかりだという。百年近く姿を見せなかった大賢者の魂が、再び器を得たのだと人々は信じているらしい。 百年。魂。器。 現実離れした単語が次々と落ちてくるのに、不思議と頭は混乱しきらなかった。むしろ、知らないはずの知識が勝手に裏を開く。魔術理論、古代文字、失われた暦、災厄の封印。ページを繰るように、いくつもの断片が連なっていく。 青年が差し出した銀の杯を受け取ったとき、手のひらに微かな熱が走った。水面に映る顔は、見知らぬ若者のものだ。だが、その奥にいる自分は確かに俺だった。 「大賢者様。まずは身支度を。外では、あなたの目覚めを知って皆が待っています」 外。そうか、この部屋の向こうには、本当に世界がある。 立ち上がると、足元が少しふらついた。けれど倒れはしない。窓辺へ歩み寄ると、朝の光に照らされた城壁と、赤茶けた屋根の街並みが広がっていた。遠くには風車が回り、煙がまっすぐ立ちのぼっている。見知らぬ景色なのに、なぜか胸がざわついた。懐かしさに似ているが、もっと深い場所で呼ばれている感覚だ。 俺は窓に映る自分を見つめ、静かに息を吐いた。 平凡な人生は終わった。だが、終わりの先に、こんな始まりが待っているとは思わなかった。 力の正体も、この世界に来た理由もまだわからない。それでも一つだけ確かなことがある。俺の中には、誰かの期待を背負うには十分すぎる知恵と、何よりも厄介な好奇心があった。 「案内してくれ」 そう言った俺の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。青年はほっとしたように頷き、扉を開く。廊下の向こうから、たくさんの足音と、ざわめきと、未知の未来の匂いが押し寄せてくる。 大賢者として目覚めた俺の一日は、こうして始まった。
大賢者の再起
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