終電のホームは、夜の底みたいに静かだった。改札を抜けたばかりの千紗は、スマートフォンの画面に映る通知を見て、息をひとつだけ吐いた。編集部から返ってきたのは、いつもの丁寧な言葉と、いつもの曖昧な延長だった。今日もまた、頑張りが足りないわけじゃない、と言い聞かせる夜が続くのだろう。そう思ったとき、足元で小さな金属音がした。拾い上げると、それは古びたキーホルダーで、白い月の形をしていた。裏に手書きで、返してほしい場所があるなら明日ここへとだけ記されている。悪戯にしては妙に真剣で、捨てるには少し重かった。 翌朝、千紗は約束の場所へ向かった。古い商店街の外れ、閉じたままの写真館の前に、約束どおり人影があった。背の高い男は、見覚えのない顔のはずなのに、どこか遠い記憶の輪郭に似ていた。彼は律と名乗り、昨夜落としたのは祖母の形見だと言った。月の欠片みたいに見えたそれは、実際には幼い頃に誰かと分け合った合図だったらしい。 「それ、返してくれると思わなかった」 千紗は少しだけ肩の力が抜けた。律の声には、馴れ馴れしさではなく、長くしまっていた箱を開けるような慎重さがあった。彼はこの写真館を片づける手伝いをしているのだという。閉じる前に、昔ここで撮られた写真を一枚ずつ持ち主へ返したいのだと話した。千紗はその言葉に、胸の奥が静かにざわつくのを感じた。返されるべきものは写真だけではない気がした。 千紗自身、昨夜まで何かを始めたいと思えずにいた。原稿は止まり、休日は増えたのに息苦しさだけが増した。けれど律の手元で揺れる写真の束を見ていると、忘れたままの時間にも、まだ行き先があるように思えた。手伝うだけなら、と千紗は言った。断る理由がなかったわけではない。ただ、理由より先に、知らない温度の期待が指先に宿っていた。 店の奥は埃の匂いがして、夕方の光が細い帯になって床を撫でていた。千紗は箱を開き、色あせた写真に指を触れた。写っているのは、笑う子ども、少し若い大人たち、そしてその端で見切れるように立つ誰か。誰もが何かを待っている顔をしている。その中の一枚だけ、見覚えのある横顔があった。千紗は思わず息を止めた。律がこちらを見る。 「それ、君のだよ」 千紗は首を振りかけて、やめた。知らないはずなのに、知らないとは言い切れない。写真の裏には、幼い字で月が帰る場所を忘れないでと書かれていた。胸の奥で、閉じていた扉がゆっくり軋む。千紗はその瞬間、自分がこの場所へ呼ばれたのだと悟った。まだ理由はわからない。それでも、何かが始まる音だけは、確かに聞こえていた。
灯台守の小さな選択
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