写真の裏に残された文字は、千紗の指先を熱くした。月が帰る場所を忘れないで。幼い筆跡は頼りなく、それなのに妙に断定的だった。誰が書いたのか、なぜ自分の心臓がそれを知っているように騒ぐのか、考えようとするほど答えは逃げた。 翌日から、千紗は写真館の片づけに通うことになった。昼は棚の埃を払い、夕方には古いアルバムをめくり、夜になると律が記録帳に持ち主の名前を書きつけた。閉店したはずの店内には、失くしたはずの時間が少しずつ戻ってきた。ほこりっぽい空気の中で、知らない人の笑顔や、もう会えない誰かの背中が、次々に箱から現れる。そのたびに千紗は、胸のどこかが静かにほどけるのを感じた。 「これ、どうするつもり?」 千紗が古い額縁を持ち上げると、律は少しだけ迷ってから答えた。 「返せるものは返す。でも、返せないものは残すしかない」 「残す場所はあるの?」 「君が見つけるんだよ」 その言い方が、少しだけ腹立たしかった。けれど千紗は、すぐにそれが励ましなのだと気づいてしまう。律は何も押しつけない。なのに、踏み出せるかどうかをいつも静かに試してくる。だからこそ、逃げ道を探していた自分が見えてしまうのだった。 数日後、千紗は封筒の山の中から、自分宛てのものを見つけた。差出人はなく、切手だけが古かった。開けると、中には一枚の写真が入っている。まだ幼い千紗が、誰かと手をつないで笑っていた。隣に写る女性の横顔は、ぼやけているのに、見覚えがあった。母だった。 裏には、もう一つだけ短い文字。 また会えたら、ちゃんと渡してとある。 千紗は写真を胸に押し当てた。忘れていたのではない。思い出せないふりをしていただけなのかもしれない。仕事がうまくいかない理由も、日々が息苦しかった理由も、たぶんひとつではなかった。けれど今は、ひとつだけ確かなことがある。この店の中で、見失っていた何かが少しずつ輪郭を持ちはじめている。 閉店作業の途中、律が古い引き出しをひとつ開けた。中から出てきたのは、白い月の形をしたキーホルダーと、同じ色の小さな鍵だった。 「これ、見覚えある?」 律の声はいつも通り落ち着いていたが、その奥に、隠しきれない緊張が混じっていた。 千紗は鍵を見つめた。知らないはずの場所の匂いが、ふいに遠くで鳴った。写真の裏の文字、母の横顔、律の手元。ばらばらだった糸が、一気に引かれる感触がした。 「……ある気がする」 そう答えた瞬間、律が初めて目をそらした。まるで、その返事を待っていたくせに、聞きたくなかった人みたいに。千紗は理由もなく息を呑んだ。写真館の奥、誰も開けていない扉の向こうで、何かがまだ眠っている。戻るべき場所は、思っていたよりずっと近くにあるのかもしれない。
灯台守の小さな選択
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