エラベノベル堂

灯台守の小さな選択

全年齢

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10章 / 全10

翌朝、写真館の扉を開けたとき、千紗は空気が少しだけ変わっているのに気づいた。古い木の匂いも、埃の気配も同じなのに、昨日まで胸の奥に張りついていた緊張だけが薄れている。まるでこの店そのものが、ひとつ大きく息を吐いたあとみたいだった。 机の上には、昨夜受け取った若い女性の箱が置かれていた。中から出てきたのは、写真と、二つ折りの便箋と、小さな鈴だった。便箋には、ここに預けたものを、やっと取りに来られましたとだけ書かれている。千紗は鈴を指先で転がした。鳴るはずのない静けさの中で、かすかな余韻だけが残る。 「返す場所が、こんなふうに必要とされるんだね」 背後から律の声がした。千紗は振り向き、少しだけ笑う。 「思っていたより、ずっとたくさん」 「君が気づいたからだよ」 その言い方は、以前なら腹が立ったかもしれない。けれど今は、素直に受け取れた。気づくことも、選ぶことも、誰かに与えられるものではない。自分の手で拾い上げるしかないのだと、やっとわかったからだ。 その日、母が店を訪ねてきた。手には、古いアルバムを一冊抱えている。表紙には、月の返却記録と同じ印が押されていた。千紗が不思議そうに見上げると、母は少し照れたように目を伏せた。 「あなたが継ぐなら、これは渡しておきたくて」 中身は、店を訪れた人たちの記録だけではなかった。返された写真の向こう側で、持ち主たちが再び日常へ戻っていくまでの、小さな証が丁寧に挟まれている。手紙の返事、再会の写真、置き忘れたままになっていた言葉。それらはひとつの結末ではなく、次へ渡すための途中だった。 千紗はページをめくるうちに、胸の奥で何かが静かに形を変えていくのを感じた。返されるものは、いつだって過去だと思っていた。けれど本当は、過去を受け取った人が、未来へ進むための橋なのかもしれない。 昼前、入口のベルが鳴った。今度来たのは、年配の男だった。片手に古びた帽子を持ち、もう片方の手で、ずっと探していたという名札を差し出す。千紗は自分でも驚くほど自然に、いつもの言葉を口にした。 「お預かりします。きっと、持ち主に返します」 男は深く頭を下げ、少しだけ肩の力を抜いて帰っていった。その背中を見送りながら、千紗は思う。自分がここでしているのは、失くしものを集めることではない。誰かが置き去りにしたままの時間に、戻る道を示すことだ。 夕方になると、律が奥の書庫から白い月の鍵を持ってきた。千紗の掌にそっと置く。 「これ、もう君のだろ」 「最初から、そうだったのかも」 ふたりはしばらく黙っていた。窓の外では、商店街の灯りがひとつずつともりはじめる。もうすぐ夜だ。けれど怖くはなかった。夜になっても、ここには帰ってこられると知っているからだ。 母は帰り際、扉の前で振り向いた。 「千紗。あなた、ちゃんと見つけたのね」 その言葉に、千紗は初めて、胸の奥の長い迷いが終わったのを感じた。見つけたのは答えではない。待つ場所であり、迎える手であり、自分の名前を自分の声で呼べる日だった。 夜が落ちる少し前、千紗は帳面を開き、新しい頁の一行目に自分の字で書いた。返却記録ではなく、はじまりの記録。すると律が横から覗き込み、苦笑する。 「結局、君が中心になるんだね」 「そうみたい」 「怖くないの」 千紗はペンを置き、窓の外を見た。怖くない、と言えば嘘になる。けれど、もう立ち止まる怖さのほうが大きくはなかった。 「少しだけ。でも、ひとりじゃないから」 その答えに、律は何も言わずうなずいた。ふたりの影が、灯りの下で静かに重なる。 写真館は、今日も月を返す場所として息をしている。だが千紗にとっては、それだけではない。失くしたものを抱えたまま、それでも前へ進むための、最初の居場所だった。 店の奥で、まだ開けていない箱がひとつだけ残っている。けれど千紗は、もう急がなかった。いつか必要なときに開ければいい。そう思えるくらいには、ここでの時間が自分のものになっていた。 予想外だったのは、すべての答えが出たあとに訪れた、静かであたたかな日常だった。終わりだと思っていた場所は、実はずっと、誰かの帰る朝を待っていたのだ。

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