エラベノベル堂

灯台守の小さな選択

全年齢

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9章 / 全10

朝の光は、写真館の埃を薄く金色に染めていた。千紗は机に広げた古い写真を見つめながら、昨夜から何度も同じ場所を探していた。父の録音、母の謝罪、律の沈黙。どれも確かにここにあるのに、まだひとつだけ足りない気がする。 その違和感は、奥の書庫に置かれた木箱の底で形になった。布に包まれていたのは、白い月のキーホルダーと、もう一つ、見覚えのない小さな封筒だった。封は固く閉じられ、表に書かれた名前は千紗ではない。律のものだった。 「これ、あなた宛てじゃないの」 呼ぶと、棚の向こうで作業していた律の肩がわずかに跳ねた。振り向いた彼の顔には、驚きより先に諦めが浮かんでいる。 「まだ、残ってたか」 「まだって何。知ってたの」 律はしばらく黙り、それから静かに近づいてきた。千紗の手から封筒を受け取る指先が、ひどく慎重だ。まるで触れれば最後だとでも言うように。 「これは、父さんが俺に預けたんだ。昔、ここを閉じる前に」 千紗は息を止めた。父という言葉は、まだ胸の奥をざらつかせる。けれど今は、その痛みより先に、ひとつの疑問が立ち上がっていた。 「どうして、私に隠してたの」 「隠したかったわけじゃない」 律は封筒を見下ろしたまま、ゆっくりと言った。 「君がこの店に来るまでは、渡すなって言われてた。君が自分で選ぶまで、答えは要らないって」 その言い方に、千紗は笑いそうになった。あまりに都合がいい。けれど、律の声は嘘をつく時のそれではなかった。むしろ、言わないことで誰かを守ろうとしてきた人の声だった。 封筒を開けると、中には短い便箋が一枚だけ入っていた。そこには父の字で、たった一行。律を信じろ。必要なら、お前もここを継げ。 千紗は手紙を見つめた。継げ。簡単な言葉のはずなのに、重かった。店を守ることではない。父が最後に残した役目を、自分が引き受けるかどうか。それを、この瞬間まで保留にしていたのだと気づく。 「律」 「うん」 「あなた、最初から私をここへ呼ぶつもりだったの」 律は首を振った。 「呼んだんじゃない。君が来るしかないと、どこかでわかってた」 「それ、同じじゃない」 「違うよ」 彼は少しだけ目を伏せた。 「呼ぶのは、逃げ道をなくすことだ。でも、君は逃げなかった。だから今ここにいる」 千紗は、胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。店も、記録も、母の言葉も、父の録音も、全部が一つの線でつながっていたのだ。自分だけが偶然迷い込んだと思っていた場所は、最初から戻るために残されていた。 そのとき、入口のベルが鳴った。扉の向こうに立っていたのは、見知らぬ若い女性だった。両手で古い箱を抱え、どこか怯えた目で店内を見回している。千紗が一歩前へ出ると、その人は小さく頭を下げた。 「月の返却記録を見て、来ました。ここで、失くしたものを預かってもらえるって」 千紗は瞬きをした。返却されるべきものは、写真や鍵だけではない。人が置いていった時間も、言えなかった言葉も、ここへ戻ってくるのだ。 律が千紗の隣に並ぶ。彼は何も言わない。ただ、ひとつ先の棚へ視線を送った。その空間は、まだ空いている。これから名前がつく場所だった。 千紗はうなずき、女性の箱を受け取った。思っていたより軽い。けれど両手に乗せると、たしかに重みがあった。 「大丈夫です。ここで預かります」 その一言を口にした瞬間、胸の奥で何かが静かに確かになった。写真館は終わる場所ではない。戻れなかったものが、もう一度帰り方を覚える場所だ。 女性が安堵したように息を吐き、律が背後で小さくうなずく。千紗はふと、父の便箋を胸ポケットへしまった。まだ答えは決めきれていない。だが、決めないまま立ち尽くすのは、もう違う。 昼の光が窓から差し込み、床に白い帯を落とした。千紗はその中へ一歩踏み出す。待つだけではなく、迎えるために。守るだけではなく、渡すために。 予想していた転機は、秘密の暴露でも、誰かの裏切りでもなかった。むしろ、逃げられない役目を静かに差し出され、それを受け取る自分に気づくことだった。 そして千紗は、白い月の鍵を握りしめたまま、初めてこの店の中心に立った。

9章 / 全10

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