エラベノベル堂

衝動の向こうで

全年齢

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1章 / 全10

夜更けの駅前は、昼間よりも人の輪郭がはっきり見えた。明るい広告の光の下で、歩き方も視線も、誰もが少しだけ剥き出しになっている。拓海はその光の端に立ち、胸の奥でうずく熱を持て余していた。 仕事は終わった。酒も飲んでいない。なのに、指先だけが落ち着かない。言いたいことを飲み込んだ日の夜はいつもこうだ。喉の奥に小石を詰めたまま歩いているようで、笑い声ひとつにも苛立ちが混じる。けれど、それを表に出すことはできなかった。怒りも焦りも、結局は自分の形をしたまま鞄の底に沈んでいく。 そんな拓海が、初めて雪奈を見たのは古い図書館の窓際だった。返却期限の相談をする声が低くて穏やかで、その静けさが妙に耳に残った。彼女は拓海とは正反対に見えた。感情を切り分けるみたいに丁寧で、誰かを急かすことも、無闇に踏み込むこともない。そのくせ視線だけはまっすぐで、見透かされるような気がした。 拓海が借りた本を抱えたまま立ち尽くしていると、雪奈が言った。 「その本、重いですよね。持ち方、少し苦しそうです」 たったそれだけの一言だったのに、拓海はなぜか胸の奥を触れられた気がして、むっとした。余計なお世話だと言い返しかけたが、雪奈は気にした様子もなく、淡い笑みを浮かべた。怒りを向けても崩れない人間がいることを、そのとき初めて知った。 それから二人は、図書館や駅の喫茶店で何度か顔を合わせるようになった。会話は長く続かない。雪奈は静かで、拓海は不器用だった。けれど沈黙が気まずくならないのが不思議だった。雪奈は拓海の荒い言葉の奥にある疲れを、拓海は雪奈の整いすぎた穏やかさの中にある固さを、互いに少しずつ見つけていった。 ある雨の日、拓海は会話の途中で思わず言ってしまった。 「どうしてそんなに落ち着いていられるんですか」 雪奈は窓の外の雨を見たまま答えた。 「落ち着いているんじゃなくて、崩れないようにしているだけです」 その言葉が、妙に拓海の中に残った。自分だけが危ういのだと思っていた。だが本当は、誰もが何かを抱え、見えないところで必死に形を保っているのかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥でうずいていた熱が、少しだけ輪郭を変えた。 その夕方、駅前の人波の中で、拓海は自分でも理由のわからない衝動に足を止めた。振り返ると、数歩先に雪奈がいた。彼女もまた、こちらを見ていた。雨上がりの空は暗いままなのに、二人のあいだだけ、妙に静かだった。これから何が起きるのか、まだ誰にもわからない。ただ、もう以前のままではいられない気配だけが、確かにそこにあった。

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