エラベノベル堂

衝動の向こうで

全年齢

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1章 / 全10

夜の雑居ビルは、昼間の喧騒を脱ぎ捨てたみたいに静かだった。蛍光灯の白い光だけが、古びた廊下を薄く照らしている。藤堂修は編集部のドアを押し開け、まだ温度の残る空気の中で立ち止まった。 「……遅くなりました」 言いながら見回すと、机の島のひとつに見慣れない人影があった。長い髪を低く束ねた少女が、書類を並べ直している。背筋はまっすぐで、動きに迷いがない。新任助手の柚希。今日から来ると聞いてはいたが、実物は想像よりずっと静かだった。 「藤堂さん、ですよね。柚希です。よろしくお願いします」 声は柔らかいのに、どこか近づきにくい。丁寧な挨拶のはずなのに、まるで扉一枚向こうから話しているみたいだった。 「こちらこそ。こんな時間まで残ってたのか」 「少しだけ。引き継ぎの確認をしていました」 柚希は微笑んだ。その笑顔はきれいだったが、温度が薄い。修は返事をしながら、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。新人らしい戸惑いも、緊張も、そこにはあまり見えない。 机の上には、未整理の紙束がいくつも積まれていた。修が自分の席に鞄を置こうとした、その瞬間だった。柚希の指先が、さりげなく引き出しへ伸びる。ほんの一瞬、視線が落ち、何かを確かめるように中を見た。 すぐに閉じられたので、見間違いかと思うほどだった。だが、引き出しの開閉音はたしかに聞こえた。 「何かありましたか」 修が尋ねると、柚希は何事もなかったように顔を上げた。 「いえ。資料の場所を覚えようと思って」 「そうか」 答えたものの、修は視線を外せなかった。礼儀正しい。仕事も早そうだ。けれど、必要以上に無駄がない。まるで、最初からここに居場所を作る気がないみたいだった。 それなのに、不思議と目が離せない。 柚希は机の上の紙をそろえ、ペン立ての位置まで整えると、ようやく修を見た。 「藤堂さん、この部署の仕事は、かなり雑多なんですね」 「まあな。締切前はいつもこんな感じだ」 「でも、まとまっています」 その言い方が妙に印象に残った。褒め言葉のはずなのに、どこか観察している響きがある。修は曖昧に笑って、椅子を引いた。 「慣れれば平気だ。困ったら聞いてくれ」 「はい。そうします」 返事は素直だった。だが、柚希はもう修を見ていなかった。机の端に置かれた封筒へ、ほんの少しだけ注意を向けている。その目は落ち着いていて、静かな湖面みたいだった。 修は仕事の手を止めたまま、ふと考えた。 この子は本当に新人なのか。 礼儀正しいのに、踏み込めない。無邪気に見えるのに、何かを隠している。そう感じた瞬間、編集部のざわめきさえ遠くなった気がした。 「藤堂さん」 「ん?」 「今夜は、まだ帰らないんですか」 「少しだけ残る。原稿が終わってなくてな」 「そうですか」 柚希は頷き、再び机に向かった。蛍光灯の下で、その横顔はあまりにも静かで、どこか危うかった。 修は何となく、自分の引き出しをそっと押し込んだ。その音がやけに大きく聞こえる。 ただの新人じゃない。そう思っただけなのに、胸の奥で何かが小さく鳴った。

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