翌朝の会議室は、昨夜の静けさが嘘みたいに明るかった。細長い窓から差す光の中で、丸テーブルを囲む資料だけがやけに白い。 「では、次の企画案からいきましょう」 修が言うと、向かいに座った柚希はすぐにメモを取り始めた。昨夜の距離感はそのままなのに、仕事に入る速度だけが妙に滑らかだ。 「この特集、軸は三本立てでいいですか」 「いい。読者層に合わせて少し柔らかくしてくれれば助かる」 「藤堂さんは、社内で誰に先に確認を取るつもりですか」 不意の問いに、修はペンを止めた。 「誰って、普通は責任編集の榊と、組版の相沢だな」 「そうですか」 柚希は頷いただけだったが、その返しは妙に的確だった。まるで最初から、誰がどこで止まるか知っているみたいに。 打ち合わせは滞りなく進んだ。原稿の本数、校正の順番、締切の刻み方。だが話が企画の外へ少し逸れるたび、柚希はさりげなく社内の名前を差し込んできた。 「相沢さん、いつもなら午前中に戻るんですね」 「え、ああ。そうだな」 「榊さんは昨日、来客対応で長く席を外していましたよね」 修は顔を上げた。 「よく知ってるな」 「たまたまです」 たまたま、で片づけるには細かすぎる。しかも彼女の口にする人名は、ただの噂話の範囲を越えていた。誰と誰が急ぎの案件を抱えているか、誰が会議前に必ず煙草をやめるか、誰が締切前になると声を荒げるか。柚希はそれを、興味本位ではなく、静かな地図でも読むみたいに把握している。 修は背筋に薄い寒気を覚えた。 「柚希、君、入ってきてからまだ一日だよな」 「はい」 「なのに、妙に詳しい」 そのときだけ、彼女の手がほんの少し止まった。 「仕事をするなら、知っていたほうが早いので」 「それはそうだが」 「藤堂さんも、そうでしょう」 反論できなかった。彼女の言葉は正しい。だからこそ、余計に底が見えない。 会議が終わるころには、窓の明るさが少し増していた。皆が席を立ち、資料を抱えて去っていく。修も最後に確認したいページを閉じ、会議室を出た。 自分の机へ戻ると、そこに見覚えのない付箋が一枚、端正に貼られていた。黄色い紙の中央に、短い文字だけが残っている。 見ないふりをしたほうがいい 修はしばらく動けなかった。背後ではコピー機の音が遠く響き、誰かの笑い声が壁越しに鈍く震えている。だが机の上のその一枚だけが、やけに熱を持って見えた。 「……誰だ、これ」 声に出しても、答える者はいない。 修は付箋を指先でつまみ上げ、反対側を確かめた。何もない。印字も、署名も、ふざけた癖もない。ただ、そこに書かれた言葉だけが、朝の光の中で不自然に浮いていた。 振り向くと、少し離れた席で柚希が書類を整えている。こちらを見ていたようには見えないのに、修はなぜか、その背中から目を離せなかった。
衝動の向こうで
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