エラベノベル堂

衝動の向こうで

全年齢

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3章 / 全10

配置換えの噂は、翌朝には職場じゅうに広がっていた。拓海が新しい現場に慣れないまま黙々と手を動かしていると、周囲の視線はどこか探るようで、些細な失敗さえ自分のせいにされる気がした。言い返せば済む場面でさえ、喉の奥に言葉が引っかかる。怒りは熱を持ったまま、出口を失って胸の底で渦を巻いた。 昼休み、休憩室の窓際に立って外を見ると、街路樹の葉が強い風に煽られていた。拓海はふいに、雪奈の言葉を思い出した。崩れないようにするのは、ひとりで抱えるためじゃない。そんなの、綺麗事だと思ったはずなのに、今は妙に耳に残る。 その日の夕方、図書館の返却口で雪奈と会った。互いに特別な約束をしたわけでもないのに、最近は妙に会う回数が増えている。雪奈はいつものように静かな声で言った。 「顔色、よくないですね」 「見たまま言うの、やめてください」 「でも、隠せていません」 拓海は苦く笑った。悔しいのに、その率直さが救いにもなる。二人は並んで駅へ向かったが、改札の手前で雪奈が足を止めた。ホームの向こうから、職場の同僚が誰かと話しながら歩いてくるのが見えたのだ。 「見られたくないですか」 「別に」 「なら、顔を上げてください」 拓海は反射的に言い返しかけて、やめた。雪奈は慰めるでもなく、背中を押すでもない。ただ、逃げる理由だけを増やさない。その距離感が、拓海にはまだ難しい。だが、難しいからこそ目を逸らせなかった。 その夜、職場の飲み会が急に開かれた。気乗りしないまま席に着いた拓海は、積もった苛立ちを酒で流せるはずもなく、沈黙を深くしていった。隣で上司が言う。新しい現場で不満があるなら、慣れるしかない。誰かが笑った。その瞬間、拓海の中で何かがぱきりと鳴った。 言葉は勝手に口を飛び出した。お前たちは、何も見ていないくせに。場の空気が凍る。拓海はそこで初めて、自分の怒りがただの反発ではなく、誰にも届かなかった痛みの形だと知った。席を立ち、店を飛び出したとき、追ってきた足音があった。 振り返ると、そこに雪奈がいた。偶然ではない。彼女は息を整えながら、真っすぐ拓海を見た。 「今は、話さなくていいです」 「なんで来たんですか」 「ひとりで崩れる顔を、見たくなかったからです」 その言葉は優しかったのに、拓海には妙に残酷だった。自分の弱さを見られるのが怖い。だが、それ以上に、見られたくないまま消えていくのが怖いのだと気づいてしまった。拓海は拳を握りしめ、やがて力を抜いた。 駅前の広場で、二人は並んで腰を下ろした。人の流れは途切れず、夜風だけが静かに吹いている。雪奈は何も聞かない。ただ、少し離れた場所で同じ空気を吸っていた。 「俺、たぶんずっと、誰かにわかってほしかった」 拓海がそうこぼすと、雪奈は小さくうなずいた。 「知っていました」 拓海は呆れたように笑い、それから自分でも驚くほど素直に息を吐いた。怒りは消えていない。むしろ形を変え、まだ胸の奥で温度を保っている。それでも、ひとりで抱え込むだけではない場所があるのだと知った。予想もしなかったのは、その帰り道、雪奈が改札の前で立ち止まり、いつもの静かな声で言ったことだった。 「明日、私の家へ来てください。あなたに見せたいものがあります」 拓海は返事をしなかった。ただ、胸の奥で新しい熱が動き出すのを感じていた。

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