昼休みの喫茶店は、編集部の空気よりずっと柔らかかった。磨かれた木のテーブルに陽射しが落ち、カップの縁に細い影を作っている。修は資料の束を脇に置き、向かいの柚希に目をやった。 「で、締切前の打ち合わせってことだったが」 「はい。藤堂さんの原稿、最後の確認です」 柚希はそう言って、手元のメモを開く。その所作は落ち着き払っていて、焦っている人の動きではない。修は苦笑した。 「君、こういう場でも全然ぶれないな」 「ぶれたほうがいいですか」 「いや、そういう意味じゃない」 言いながら、修はカバンの中へ手を伸ばした。さっきまで確かに入っていたはずの資料が、そこになかった。 「あれ」 「どうしました」 「原稿の束が……ない」 修は一度、テーブルの上を見直した。メニューの下、ナプキン立ての横、椅子の背。どこにもない。さっき店に入ったとき、確かに持っていた。締切前で神経が尖っているせいかと思いかけたが、柚希は慌てもしなかった。 「落ち着いてください。まず、最後に見た場所を思い出してください」 「会議室を出るときには持っていた。エレベーターでも……たぶん」 「たぶん、ですね」 「笑うな」 「笑っていません」 柚希はすっと視線を動かし、修の足元、そして店内の奥へ目を向けた。反対側の席で新聞を広げていた客が、ちょうど立ち上がるところだった。 「藤堂さん」 「なんだ」 「今、あちらを気にしないでください」 「え?」 「気にすると、余計に目立ちます」 修は言われた通りに顔を戻したが、逆に意識だけが引っ張られた。柚希は声を落とし、淡々と続ける。 「資料は、なくなったように見えているだけです。慌てず、会計の前にもう一度探しましょう」 「そんな簡単な話か」 「簡単ではありません。でも、今はそうするしかないです」 その言い方が妙に確かだった。修が言い返そうとした、その瞬間、足元の椅子がわずかに鳴った。見ると、テーブルの影に紙の端がのぞいている。拾い上げると、探していた資料の束だった。 「……ここに」 「よかったですね」 柚希は安心したふうに微笑んだ。だが、その目だけは笑っていなかった。さっきから何度も、店内の反対側へ流れている。 「柚希、何を見てる」 「いえ」 「嘘は下手だな」 彼女は一拍だけ黙り、それから静かにカップへ視線を落とした。 「気にしすぎかもしれません。ただ、少し視線を感じたので」 「誰かに?」 「わかりません。でも、偶然にしては、少し出来すぎています」 修は資料の束を確かめながら、喉の奥が乾くのを感じた。見当たらなくなったタイミング、柚希の落ち着き、店内の反対側を気にする目。全部が、ぴたりと噛み合いすぎている。 「……付箋のことも、これも」 「同じかどうかは、まだわかりません」 「わからないのに、そんな顔で言うのか」 「わからないからです」 柚希はそう返して、ようやく修を見た。その瞳は静かで、けれど底のほうに小さな焦りが沈んでいるようにも見えた。 修は資料を抱え直し、喫茶店の窓の向こうへ目を向けた。外では昼の通りが何事もない顔で流れている。だが、ただの不手際では済まない気配だけが、カップの湯気みたいに薄く立ちのぼっていた。
衝動の向こうで
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