夕方の暖簾が揺れるたび、町のはずれの寿司屋『波止場』には、潮の匂いと酢飯の湯気が交じり合って流れ込んでくる。玲は包丁を拭きながら、仕入れ箱の蓋に目を落とした。 「今日はまた、随分と難しい顔をしてるな」 独り言のつもりだったのに、箱の中から返事がした。 「難しいのは顔ではない。名だ」 玲の手が止まる。次の瞬間、木箱を開けた先で、銀の腹をした魚がひと跳ねした。札には見慣れぬ漢字が刷られている。玲は目を細めたが、声に出した途端、自信が消えた。 「……これは、なんだ」 「わたしはわたしだ」 別の札が震え、今度は細長い魚がぴしゃりと尾を打った。 「その呼び方は雑だ。もっと格式がある」 「格式?」 「そうだ。札の字が正しいなら、名乗りも正しくあれ」 玲が困ったように笑う間にも、箱の底から次々と小さな跳ねる音がした。立派な漢字を背負った魚たちは、まるで自分の字面に文句を言うように、あっちへこっちへ身をくねらせる。 「待て待て。まずは全員の名前を確認しよう」 「読めるなら、だがな」 最初の一匹が、くるりと札を裏返す。そこに書かれた字は、玲でも一瞬ためらうほど癖が強い。 「いや、無理だろこれ」 「無理と言うな。読めぬなら覚えろ」 「仕込み前から試練を課すなよ……」 玲は額を押さえた。厨房の奥では鍋が静かに湯気を上げ、まな板が整列を待っているのに、肝心の主役たちは箱の中で名乗りの戦争を始めている。 「そっちが先に跳ねたんだろ」 「跳ねたのは、名を雑に扱われたからだ」 「いや、表示と名乗りがそもそも一致してないじゃないか」 その言葉に、魚たちが一斉にざわめいた。 「一致していないだと」 「札を書いた者を呼べ」 「まずはその漢字を読め」 玲は苦笑しながら、仕入れ箱の縁に手を置いた。魚たちはまだ威勢よく跳ねているが、誰一人として読める名を持っていない厨房なんて、初めてだ。 「よし。今日の一番の仕事は、仕込みじゃなくて自己紹介だな」 そう言った瞬間、箱の中でまた一匹が跳ね、別の札がひっくり返った。暖簾の外では夕方の客が笑い声を立てて通り過ぎる。その足音を聞きながら、玲は深く息を吸った。 寿司屋『波止場』の一日は、どうやら魚の名札ひとつで、思いきりコントのように崩れ始めていた。
難読魚の寿司店
全年齢小説ID: cmng2igwi005c01o7rri7ebqb
