海から吹きつける風が店先の暖簾を揺らすたび、老舗寿司店の木戸がかすかに鳴った。朝の仕込みを終えた店主の佐久間は、氷で締めた箱を台に置き、得意げに顎を上げる。今朝の仕入れは、いつもよりずっと面白い。ところが面白いのは魚の味だけではなかった。 まず目を引いたのは、帳場に並ぶ札の字である。沖ぎす、めじな、かわはぎ、などと並ぶ中に、ひときわ難しい文字が混じっていた。黒板に書かれた品書きを見た常連の辰夫が、老眼鏡を鼻先までずらす。 「こいつは何て読むんだ」 「私にもさっぱりよ」 女将の志乃が笑い、佐久間は胸を張る。 「今日の目玉だ。漢字は難しいが、味は簡単にうまい」 箱の中の魚たちは、名前に似合わず実に個性的だった。ひらりと尾を揺らしてこちらを見返す細長い魚は、やけに気取った顔つきで、まるで自分が主役だと言わんばかりだ。別の一匹は、丸い目をぱちぱちさせながら、氷の上で小さく跳ねてみせる。そのたびに周囲の魚がぴくりと身をよじり、まるで舞台の稽古場のような賑やかさだった。 そこへ、今日から手伝いに入る見習いの真琴が、分厚い魚図鑑を抱えて厨房に現れた。彼女は張り切って品書きを見上げ、声を出して読む。 「ええと、こ、これは……さ、さばっ」 「違う違う」 佐久間が即座に止める。 真琴は顔を赤くしたが、すぐに次の札へ目を移した。だが読みのたびに首を傾げ、出す皿を取り違え、店内は小さな騒ぎに包まれた。 「それは隣の魚だよ」 「そっちは名前が長いほうだ」 常連客まで口を出し始め、笑い声が波のように広がる。 けれど不思議なことに、魚たちは怒らない。むしろ自分の名を呼ばれるたび、どこか誇らしげに見えるのだ。佐久間はそんな様子を見て、ふっと口元を緩めた。 「名前は看板だ。難しいほど、覚えたくなる」 真琴はその日から、帳場の隅に貼った紙へ読みを何度も書き写した。だが翌日も、また一つ読み違える。すると店主も客も待っていましたとばかりに訂正し、しまいには誰が一番うまく読めるかという遊びが始まった。魚の名を当てるたび、客の箸は止まり、代わりに笑いが進む。寿司屋は少しずつ、町でいちばん気の置けない場所になっていった。 海辺の空は高く、潮の匂いは日に日に強くなる。来月には町の食の催しが開かれる。佐久間はその看板メニューを、あの珍しい魚たちで彩ろうと決めていた。真琴もまた、まだ読めない漢字に指を当てながら、もう逃げなかった。 「次こそ、ちゃんと覚えます」 そう言う彼女の声に、箱の中の魚たちが、ひときわ元気に身をくねらせた。まるで、舞台の幕がこれから上がることを、誰より先に知っているようだった。
難読魚の寿司店
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