食の催しまであと十日。真琴は朝から帳場に立ち、魚の札を見比べては小さく唸っていた。昨日覚えたはずの字が、今朝になると別の顔をしている。指でなぞりながら声に出すたび、厨房の奥から佐久間の笑い声が飛ぶ。 「慌てるな。魚のほうが、先にこちらを覚えているかもしれん」 「それは困ります」 真琴が言うと、店内の常連たちまでどっと笑った。 この頃は、難読の名を当てる遊びがすっかり定着していた。注文の前に客が札を見上げ、辰夫が先陣を切る。 「これは、たしか潮の香りが強いやつだろう」 「惜しい。もうひとひねり」 女将の志乃が茶を置き、真琴が恐る恐る答える。すると正解か外れかにかかわらず、魚たちはひらりと身を揺らし、どこか満足げに見えた。名前を呼ばれること自体が、彼らにはご馳走らしい。 だが催しの献立を決める段になると、店は少しだけ熱を帯びた。佐久間は一番人気の魚を推し、志乃は色どりの良さを重んじる。真琴は説明書きを添えたいと言い、辰夫は食べやすさが第一だと譲らない。そこへ、札を整理していた真琴が、似た字面の二種をうっかり取り違えた。 「すみません、こちらは……」 「それは違う。ひとつは海の奥で静かにしているやつだ」 佐久間がすぐに直したが、真琴は真っ赤になった。ところが、その勘違いが思わぬ火種になった。 「静かなほうは、澄んだ器に映える」 「いや、気取ったほうを小さく握って並べるのもいい」 「待て待て、どちらも主役にすれば済む話だろう」 誰かが言い、誰かがうなずき、気づけば板場の上に二つの盛り付け案が並んでいた。ひとつは凛とした白身を薄く重ね、もうひとつは香りの立つ身をふんわりと包む。どちらにも難しい漢字の名札を添え、読み方の横に、魚の癖や性格まで書き足していく。 真琴は、文字だけではなく、魚の癖まで自分の手で覚えようとした。跳ねやすいもの、気分屋で静かなもの、見た目に反してやたらと堂々としているもの。そうして並べてみると、どの魚も似ているようで違い、違うようで店の空気を支えている。彼女はふと、難しい漢字は単なる障害ではなく、名を知る楽しさの入口なのだと思った。 夕方、佐久間が帳場の黒板を見上げ、うむと頷く。 「よし、決めた。催しでは一皿ずつ名を立てる。客が読めても読めなくても、味で納得させる」 志乃が微笑み、辰夫が盃を掲げる。 「それでこそ、この店らしい」 真琴もようやく胸を張った。まだ読めない字はある。だが、わからないまま笑われる日々は、もう怖くなかった。 その夜、仕込みを終えた厨房で箱の氷を足していると、最も難しい字の札がふわりと外れ、真琴の足元へ落ちた。拾い上げた彼女は、何度も見たはずの文字を見つめ、なぜかすっと読めた。 「……これ、こう読むんですね」 佐久間が目を細める。 「やっと魚に呼ばれたな」 箱の中では、名高い一匹が、誇らしげに尾を立てていた。
難読魚の寿司店
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