朝の光が暖簾の端を白く浮かせるころ、玲は新しいお品書きをカウンターに立てかけた。漢字の下には、短い印象語だけが並ぶ。読めないなら、そのまま食べて覚えればいい。そんな方針に、店内の空気は不思議と落ち着いていた。 「よし、これでいく」 「やっと迷いが消えた顔だな」 皿の上で、いちばん難しい札の魚が尾を揺らす。玲は苦笑しながら、握りをひとつ、ふたつと並べた。 ほどなくして、最初の客が席に着く。お品書きを見たその人は、眉を寄せてから、玲を見上げた。 「これ、読めないですね」 「読めなくていいです。ひと口で分かります」 「そんなの、ほんとに?」 「どうぞ」 差し出された一貫を、客がためらいがちに口へ運ぶ。次の瞬間、目がまるくなった。 「……うま」 玲は、そこで初めて肩の力を抜いた。 「でしょう」 「なんだこれ、名前より先に笑う味だ」 「うちの看板です」 客はもう一貫、と手を伸ばす。カウンターの向こうで、魚たちがそっと胸を張った。 そのとき、店先の空気が微かに変わった。康平が、いつもの余裕を欠いた顔で暖簾をくぐってくる。玲は一瞬だけ視線を上げたが、すぐに次の寿司へ手を伸ばした。 「……やっぱり、こうなるのか」 康平は悔しそうに座ると、黙って出された皿を受け取った。ひと口食べ、噛みしめ、そして観念したように目を伏せる。 「参った。名前で煽るより、こっちのほうがずっと強い」 「でしょうね」 「腹が立つくらいうまい」 玲は少しだけ笑った。 「ありがとうございます」 康平はそれ以上何も言わず、残りをきれいに食べ切ると、椅子を引いた。店を出る背中は、来たときよりずっと静かだった。 その直後だった。楓の鞄が、カウンター脇でぴょこんと跳ねる。玲が目を瞬かせるより早く、あの難読魚がするりと飛び出した。 「おい、お前」 魚は看板の上にひらりと乗ると、小さく一礼した。まるで、自分の居場所を知っているみたいに。 「……そこに上がるのか」 楓が慌てて鞄を抱え直す。 「ごめん、勝手に」 「いや、もういい」 玲は呆れながらも笑った。看板の上で頭を下げる魚と、その下で空になった皿を見つめる客たち。誰も漢字を読めていないのに、もう誰一人として忘れられそうになかった。 「名前は難しくても、味はまっすぐだな」 誰かがぽつりと漏らす。 その言葉は、あっという間に店内へ広がった。笑い、うなずき、もう一度頼む声。商店街の外まで届きそうな勢いで、波止場の評判は塗り替えられていく。 玲は看板の上で礼をした魚を見上げ、ふっと息を吐いた。 「よし。うちの勝ちだ」 魚は答える代わりに、尾でちょこんと看板を叩いた。
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難読漢字の名前を持つ魚たちが巻き起こす、寿司ネタコメディ
