エラベノベル堂

難読魚の寿司店

全年齢

小説ID: cmng2igwi005c01o7rri7ebqb

10章 / 全10

食の催しの朝、海辺の通りは潮の匂いと人いきれで早くも熱を帯びていた。真琴は暖簾の前で深く息を吸い、胸の中のざわめきを静める。昨夜まで何度も並べ替えた難読の札は、もう迷いの種ではない。今日は店の顔として、まっすぐ客に差し出すものだ。 板場では佐久間が最後の握りを整え、志乃が皿の艶を確かめ、辰夫が案内の順路を見て頷いていた。中央には、いちばん難しい漢字の魚を据えた特別な寿司膳。その周囲を、似た名の魚たちが囲む。白磁に映える澄んだ身、香りが先に立つ身、見た目の派手さに反して柔らかな味の身。それぞれの個性が、まるで違う楽器のように並んでいた。 開店すると、客たちはまず黒板の前で足を止めた。難しい字を見上げ、首をかしげ、次の瞬間には笑う。真琴が読み上げるたびに、店内に小さな驚きが生まれた。 「こちらは、口に入れた瞬間に凛とする魚です」 「こっちは、飲み込んだあとに香りが追いかけてきます」 「名前は難しいですが、覚える楽しみがありますよ」 最初の皿を口にした若い客が、目を丸くした。 「字面と味の印象が、ぜんぜん違う」 辰夫が得意そうに笑う。 「違うから面白いんだ。似ているやつを並べると、なおさら分かる」 志乃も茶を差し出しながらうなずいた。 「見分ける楽しさって、意外と残るでしょう」 昼前、ひとつだけ小さな行き違いが起きた。似た名の札が別の皿に置かれていたのだ。けれど真琴は、もう慌てなかった。すぐに皿を見比べ、笑って言う。 「こちらは先に旨みが来るほう、あちらは後から広がるほうです」 客は感心したように頷き、むしろ食べ比べを楽しみに注文を増やした。混乱は騒ぎではなく、会話のきっかけになっていた。 午後になると、店はすっかり祭りのような賑わいになった。誰かが難しい魚名を口にすると、別の誰かが即座に読みを当てようとする。外れても笑いになり、当たれば拍手が起きる。真琴はその輪の中で、魚たちの癖をすらすら言葉にできる自分に気づいた。跳ねやすいもの、静かに見えて芯のあるもの、気取っているようで一番素直なもの。もう、名前はただの文字ではなかった。 閉店間際、最後の一皿が運ばれると、店主の佐久間が大きく息を吐いた。 「よし。今日でこの町の連中は、うちの魚を忘れられなくなったな」 真琴は笑って、中央の魚を見た。あれほど読めなかった字が、今は確かな看板に見える。 「忘れられないのは、味だけじゃありませんね」 「ああ」 佐久間が頷く。 「名前を覚えるってのは、その魚を好きになるってことだ」 外では夕暮れの海風が吹き、暖簾をやわらかく揺らしていた。客たちは帰り際、難読の魚名を口々に繰り返しながら、どこか嬉しそうに笑っている。店の外まで広がったその声を聞き、真琴はようやく気づいた。予想外だったのは、珍しい魚そのものではない。難しい漢字が、人を集め、笑わせ、食欲まで連れてきたことだった。 その日以来、町では老舗寿司店の難読魚がすっかり名物になった。真琴はもう札の前で立ち止まらない。佐久間の隣で胸を張り、迷いなく案内する。 「こちら、覚えるほどにおいしい魚です」 箱の中では、最後まで誇らしげだった一匹が、満足そうに尾を揺らした。まるで、自分の名前が町じゅうに広まる未来を、最初から知っていたかのように。

検閲済みプロット

難読漢字の名前を持つ魚たちが巻き起こす、寿司ネタコメディ

10章 / 全10

TOPへ
難読魚の寿司店 | エラベノベル堂