食の催しを翌日に控えた夜、老舗寿司店の板場には、海から持ち帰った氷の冷気と、炙った酢飯の匂いが細く漂っていた。真琴は黒板の前に立ち、難読の魚名を一つずつ指で追う。似た字面の札はすでに整理したはずなのに、見つめるほどに輪郭が揺らぐ気がした。 「最後の確認だ」 佐久間が包丁を拭きながら言う。 「看板は、一目で分かる必要はない。食べて分かればいい」 真琴はうなずいたが、その直後、仕込み台の端で小さな声を上げた。中央に据えるはずの魚の札が、別の箱に紛れ込んでいる。しかも、その隣には似た名の魚が並び、見分けはなおさら難しい。昼間までの準備で、真琴は両方の性格を覚えたつもりだった。けれど、こうして並ぶと、どちらが先に目を引くのか判然としない。 「しまった、また混ざりました」 「混ざったなら、分け方を変えるだけだ」 佐久間の声は穏やかだった。志乃が皿を並べ直し、辰夫が腕組みをして箱を覗き込む。静かそうな魚は澄んだ白磁の上で映え、気難しそうに見えたほうは、少し温かみのある器に置いた途端、妙な品の良さを見せた。似ているからこそ、同じ扱いでは足りない。真琴はそのことを、ようやく身をもって知った。 「名前が似ていると、同じに見えてしまう。でも違いは、並べたときに浮かびますね」 「そうだ」 辰夫が低く笑う。 「比べて初めて、どっちが前に出るか分かる」 そのとき、真琴の手が止まった。二種の魚の札を入れ替えようとしていたが、ふと、逆にしてみたくなったのだ。いつもなら主役を決めてから脇を固める。だが今夜は、脇に置いたはずの魚が、主役を引き立てる役目を果たしていた。どちらが上でも下でもない。順番そのものが、味の違いを生んでいる。 真琴は筆を取り、紹介文を書き足した。ひとつには、最初のひと口で凛とした旨みが立つと添える。もうひとつには、飲み込んだあとに香りが追いかけてくると書く。難しい漢字の横に、短い言葉を置くだけで、魚たちは別々の顔をした。 「これなら、客も迷わない」 志乃が頷く。 「迷ってもいい。迷った先に面白さがある」 佐久間が言い、黒板の中央を指した。 「だが、明日はそれだけじゃない。混乱したおかげで、もっといい見せ方ができる」 真琴は目を瞬いた。佐久間が続ける。 「中央の一皿は、いちばん難しい魚を置く。だが、その周囲は似た魚を並べる。似ているものを並べて、違いを見せるんだ。客は読みたくなるし、食べたくもなる」 辰夫が満足そうに鼻を鳴らした。 「なるほど。漢字の壁を、食欲で越えさせるわけか」 そこからは早かった。真琴は札の配置を変え、盛り付けの順番を書き直す。佐久間は握りの大きさを変えて、同じように見える二種に明確な差を出した。志乃は皿の色を選び直し、白い魚には透明感のある器を、香りの強い魚には少し深みのある皿を合わせる。辰夫は客が順に回れるよう、導線を考えた。さっきまで混乱の種だった札が、今では店の見どころになっている。 真琴は、ふと笑ってしまった。難しくて、何度も読み間違えた漢字が、こうして店の流れを作っている。魚たちもまた、氷の上でどこか得意げだ。静かなものは静かなまま、気むずかしいものは気むずかしいまま、それでも一緒に並ぶと、不思議と調和が生まれる。 「これでいこう」 佐久間が最後の札を中央に置いた。 「明日は、名前の難しさで驚かせるんじゃない。違いの面白さで驚かせる」 真琴はその言葉に、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。最初はただ覚えるだけで精一杯だった。だが今は違う。読みを知り、性格を知り、盛り付けを考え、客に伝えるところまでが、自分の仕事になっている。混乱は終わりではなく、見せ方を見つけるための入口だったのだ。 夜更け、店が静まり返るころ、真琴は中央の一皿を見つめた。難読の魚が真ん中で堂々と鎮座し、その周りを個性の違う仲間たちが囲む。まるで一つの景色のようで、けれど一匹も脇役ではない。 明日、この店はきっと笑われる。だがそれでいい。笑いながら名前を覚え、食べながら違いを知る。その先に、誰も予想しなかった名物が生まれるのだと、真琴はもう確信していた。
難読魚の寿司店
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