玲は新しいお品書きを机の上で広げ、漢字の下に短い印象語を添えていった。読み方を押しつけるのではなく、ひと口の気分だけを先に置く。そう決めると、さっきまでのざわめきが嘘みたいに筆先は落ち着いた。 「香ばしい、静か、つややか……よし」 「なんだ、その説明は」 皿の上で、いちばん難しい札の魚が尾を揺らす。 「長く語るより、これで十分だろう」 玲は苦笑しながら、墨の乾くのを待った。そのときだった。 暖簾の外から、控えめな足音がひとつ入ってくる。閉店後の空気に似合わない、迷いのない音だった。 「まだ、起きてたんだ」 楓だった。手にした小さな鞄を胸に寄せ、少し言いにくそうに視線を泳がせている。 「楓? こんな時間にどうした」 「うん……言わなきゃいけないことがあって」 玲が筆を置くと、店内の魚たちもぴたりと動きを止めた。楓は鞄の口をきゅっと握りしめ、深呼吸する。 「実はね、その、いちばん問題を起こしてた魚、あれ……私の個人的な相棒なの」 「相棒?」 「ずっと前から一緒にいたの。名前が難しくて、だから余計に、私には特別で」 玲は目を瞬かせた。いちばん難読の札がついた魚が、皿の上で僅かに身を反らす。 「ちょっと待て。店の水槽にいたはずだろ」 その言葉に、楓はさらに小さくうなずく。 「ううん。さっきまで、そう思ってた。でも、いま気づいたの。あの子、いつの間にか私の鞄の中に潜んでたみたい」 「鞄の中に?」 玲の声が裏返る。思わず鞄を見やるが、楓は慌てて口を開いた。 「出してって言っても、勝手に落ち着いてて……私も気づくの遅くて」 店中の空気が、ひゅっと止まった。魚たちの間を走っていた緊張も、玲の指先の墨も、全部一度だけ固まる。 「つまり、あの騒ぎの半分は、ずっと身近にいたってことか」 「うん。ごめん、玲さん」 「謝るのはあとだ。まず、その鞄を見せてくれ」 楓がそっと口を開ける。玲が覗き込んだその瞬間、店中から同時に小さな声が漏れた。 「……いた」 皿にいたはずの影が、楓の鞄の奥で静かに身を縮めている。まるで最初からそこが居場所だったみたいに。 玲は思わず天井を仰いだ。 「まさか、そんなところに潜んでたのかよ」 楓は困ったように笑った。 「たぶん、漢字の難しさより、こっちのほうが落ち着くんだと思う」 いちばん難しい魚が、何事もなかったように尾をひとつだけ振った。玲は新しいお品書きを持ったまま、その光景を見下ろす。 静まり返った店の中で、誰も次の言葉をすぐには見つけられなかった。
難読魚の寿司店
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