書類の束が机の端で小さく崩れた。 彩はそれを拾い集めながら、思わずため息をこぼす。 「またやってる。のろまな亀、今日も健在だな」 背後から飛んできた軽い声に、彩は肩をすくめた。 「うるさいな。急がないと間に合わないの」 「その割に、指先が全部ばらばらだけど」 同僚の笑いに、取調室の空気が少しだけ和む。港町警察署のこの部屋は、いつも重たい沈黙が居座るはずなのに、今は紙の擦れる音と誰かの冗談で妙に生きていた。 彩は赤くなりながらも、なんとか書類を揃えた。 「ほら、見て。今度こそ完璧」 「五分遅れの完璧ってやつか」 「それでも完璧は完璧」 言い返すと、また笑われる。けれど、嫌な気分ではなかった。こうしてからかわれるくらいには、今日も無事に働けている。 そのとき、扉が控えめにノックされた。 「彩、迎えに来た」 聞き慣れた声に、彩はぱっと顔を上げた。 慎吾が立っている。少しだけ疲れたような顔なのに、目だけは柔らかい。 「もう終わったのか」 「うん。ほら、見ての通り、私は最後まで遅いけど」 「遅いんじゃない。丁寧なんだろ」 さらりと言われて、彩は言葉を失った。 同僚が 「はいはい、お似合い」 と茶化すと、慎吾は苦笑して会釈する。 「いつも彩が迷惑を」 「いや、迷惑なんて思ったことないよ」 その即答が、妙に胸に響く。 彩は手元の書類を抱え直しながら、慎吾の横に立った。帰り支度をするだけの短い動きなのに、彼がいると不思議と世界の輪郭がやわらぐ。 「ねえ、慎吾」 「ん?」 「私、やっぱり少し変かな」 「どこが」 「すぐ手間取るし、片づけも遅いし、皆に亀みたいって言われるし」 慎吾は少し考えてから、穏やかに笑った。 「亀は前に進むだろ。止まってないなら、それでいい」 彩は返す言葉が見つからず、ただ視線を落とした。机の上の端正な書類の山が、さっきまでの慌ただしさを静かに押し込めている。 その静けさの中で、ふと胸の奥がざわついた。 父の命日が近い。 日付を意識しただけなのに、冷たいものが背中をかすめる。 彩は笑おうとして、うまくいかなかった。 「どうした」 「……なんでもない」 答えた声が、自分でも驚くほどかすれていた。 慎吾はそれ以上追及せず、ただ隣で歩幅を合わせる。優しい沈黙だった。けれど、その優しさに守られるほど、胸騒ぎは濃くなる。 このまま穏やかに帰れるはずなのに、何かが近づいている気がした。彩はその正体を掴めないまま、慎吾の袖をそっと握りしめた。
のろまな亀、真相を追う
全年齢小説ID: cmnhbd1fu006201o74ev4afux
