「のろまな亀」 と背中で呼ばれるたび、春日ひまりは肩をすくめて笑った。笑うしかなかった。交番から本署に戻るまでに三回も迷い、書類は二度提出期限を過ぎ、聞き込みの相手には話の腰を折られ、先輩にはまたかと額を押さえられる。それでも彼女は、顔だけはいつも明るかった。落ち込んでも、朝になれば靴ひもを結び直して立つ。そういうふうにしか、生きてこられなかったからだ。 その日も、ひまりは資料室で古い事件ファイルの束を落としていた。床に散った紙を拾い集める途中、黄ばんだ報告書の隅に、見覚えのある筆跡を見つける。父が失踪した日の周辺事情を洗っていた記録。そこに、婚約者の瀬尾悠真の名前と、彼の勤め先だった会社の押印が重なるように記されていた。 ひまりは、しばらく呼吸を忘れた。 悠真は、優しい男だった。真面目で、怒鳴らず、約束を破らない。休日には彼女の失敗を笑い飛ばし、残業続きの夜には温かいスープを差し入れてくれる。そんな人が、父の失踪に関わっているかもしれない。紙の端に残る数行の文字は、ひまりの胸の中で、静かな雷みたいに鳴った。 その夜、彼女は何気ないふりで夕食を作った。白菜を切り損ね、指先を浅く切り、慌てて絆創膏を探すうちに、悠真が先にそれを見つけて貼ってくれた。いつも通りの動作。いつも通りの声。けれど、ひまりには、その優しさの一つ一つが、急に薄い膜の向こうにあるように感じられた。 「ねえ、悠真」 呼びかけた瞬間、彼女は自分の声が少し震えているのに気づいた。理由を聞きたそうにする彼の目を見て、続けようとした言葉が喉の奥でつっかえる。資料のこと、父のこと、あの会社のこと。全部まとめて吐き出せば楽になるはずなのに、たった一歩が踏み出せない。 「今日、変な資料を見つけちゃって」 そこまで言って、彼女は箸を落とした。床を転がる音が、妙に大きい。悠真はすぐ拾ってくれたが、何も聞き返さない。ただ、少し困ったように笑った。その笑みが、ひまりにはひどく遠く見えた。 その晩、彼女は眠れなかった。天井を見つめながら、父の失踪の日を思い返す。夕方、突然電話が途切れたこと。帰宅しないまま待ち続けた母の背中。あのとき自分はまだ学生で、何もできなかった。今度こそ、何かを掴めるかもしれない。そう思う一方で、悠真の指先の温度が、ひまりの決意をやわらかく押し戻していた。 朝になれば、また仕事が始まる。失敗ばかりの毎日が、何事もなかったように彼女を待っている。それでもひまりは、机の引き出しに報告書の写しをしまい、深く息を吸った。父の名前が消えた日の影に、婚約者の名がある。たとえそれがどんな意味を持つのか分からなくても、見なかったことにはできない。 のろまでもいい。遅くても、逃げない。 ひまりはそう心に決めて、制服の襟元を整えた。外はまだ薄い朝焼けで、街は静かだった。だが彼女の胸の中では、もう何かが確かに動き始めていた。
のろまな亀、真相を追う
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