エラベノベル堂

落語部の昼下がり

全年齢

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1章 / 全10

廊下の窓から差し込む夕方の光が、三階の奥にある部室の札をやわらかく照らしていた。陽奈は手にした上履きのつま先をそろえ、扉の前で一度だけ深呼吸する。 「……ここ、落語部、で合ってるよね」 自分に言い聞かせるみたいな声が、思ったより小さく出た。すると中から、軽い返事が飛んでくる。 「合ってる合ってる。迷子なら、ちゃんと迷子料金は取らないから安心して」 「誰がそんな料金払うんですか」 扉を開けると、机の向こうで紬が手を上げた。きっちり結ばれた髪に、いかにも落ち着いた笑顔。隣では莉奈が椅子をくるりと回し、片手でぴらっと挨拶する。 「見学だよね。歓迎。ここ、だいたい笑ってる部活だから」 「だいたいって何ですか」 「だいたいは大事だよ。笑いは八割方、だいたいでできてるから」 陽奈は思わず吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。すると紬が肩をすくめる。 「じゃあ、自己紹介代わりに軽く一席。紬から行こうか」 「一席ってほどじゃないけどね」 紬は姿勢を正し、急に声の調子を変えた。 「えー、わたしの名前は紬。糸をつむぐ紬です。だけど最近は、つむぐよりほどける方が得意でして」 部屋に、くすっと笑いが落ちる。 「この前なんて、朝に髪を結んだつもりが、帰るころには気持ちまでほどけてました。だから名前も少し長くしておきましょうか。紬に、ほどけに、さすらいに、うっかりを足して……」 「長いです長いです」 莉奈が手を叩いて割り込む。 「じゃあ次、私。莉奈です。梨の莉に、奈良の奈。覚えにくいなら、もっと増やしてもいいよ。たとえば、莉奈に、食べかけに、忘れ物に、あとで思い出すやつ、までつける」 「もはや名前じゃなくて予定表だね」 紬が笑い、陽奈もつられて笑った。たったそれだけなのに、空気が一気にやわらかくなる。陽奈はこの部屋に入る前、落語ってもっと難しくて、古くて、身構えるものだと思っていた。けれど目の前の二人は、ただ話しているだけで人を笑わせる。 「で、君は?」 莉奈に聞かれて、陽奈は背筋を伸ばした。 「陽奈です。ひなたの陽に、菜っ葉の菜の菜。えっと……」 「待って、そのままだと普通すぎる」 「えっ」 「じゃあ、落語部らしく足してみようか」 紬が指先で机をとんと叩く。 「陽奈に、途中で忘れない、でもたまに忘れる、元気で、笑うと負けた気がしない、そんな名前」 「長いですね」 「長い名前は、呼ぶたびにちょっと楽しいでしょ」 莉奈がにやりとする。 「じゃあ決めた。陽奈は今日から、名前だけで一席取れる女ってことで」 「そんな肩書き、初めて聞きました」 陽奈は笑いながら、部屋の隅に置かれた座布団を見た。そこに座れば、自分もこのやりとりの続きをできる気がする。さっきまでの緊張は、もう胸の奥で小さく丸まっていた。 紬が静かに言う。 「見学だけでもいいし、もし気に入ったら、うちに来る?」 陽奈は一度だけ迷って、それから勢いよくうなずいた。 「来ます。たぶん、いえ、絶対」 莉奈がぱっと手を打つ。 「よし、入部決定の顔だ」 「まだ正式に言ってないのに」 「顔が言ってるから大丈夫」 陽奈は、もう一度笑った。部室の空気は軽くて、でもあたたかい。長い名前みたいに、ちょっとややこしくて、だからこそ覚えたくなる。 紬と莉奈は顔を見合わせ、次の小噺を始めようとしていた。陽奈はその前の静かな一秒に、自分がすでにこの輪の中へ足を踏み入れているのを感じた。

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