翌日の夕方、部室の扉を開けた陽奈は、昨日とは少し違う緊張で背筋を伸ばした。見学じゃない。今日は、ちゃんと練習する側だ。 「来たね、陽奈」 紬が机の上のノートを閉じながら言う。 「入部初日って、妙に元気なのに、声だけ別の生き物になりがちなんだよね」 「それ、私ですか」 「たぶん全員」 莉奈は椅子を少しだけ引いて、にやっとした。 「さ、まずは発声。難しいことは考えなくていい。考えると喉まで固くなるから」 「言い方がもう怖いです」 「怖くない怖くない。ほら、息を吸って、腹から出して」 紬が手本を見せる。陽奈もまねして息を吸ったが、胸ばかり膨らんで、出てきた声は思ったより細い。 「ええと、おはようございます、っ」 「最後が消えた」 莉奈が即座に拾う。 「朝の挨拶なのに、途中で帰宅しちゃった」 「帰宅って何ですか」 陽奈が言い返すと、紬がくすりと笑った。 「でも今の、悪くないよ。声が引っ込むのは、恥ずかしさが先に立つから。まずは一語を、まっすぐ置く感じで」 「一語を、まっすぐ」 陽奈が繰り返すと、今度は少しだけ芯のある音が出た。 「そうそう」 紬がうなずく。 「で、次は間。しゃべる速さじゃなくて、止まる場所が大事」 「止まる場所?」 「ここ」 莉奈が机を軽く指で叩いてから、わざと半拍置いて続ける。 「たとえば、今の私は、ちゃんと間を取った」 「自分で言うんだ」 「言わないと伝わらないからね」 陽奈は笑いかけて、そこでふと気づいた。 「……えっと、間を取るって、こう、ですよね」 わざとらしく一呼吸おいてから、陽奈は真面目な顔で言った。 「お母さん、今日は夕飯が遅くなるから、先に食べててね」 「急に家庭的」 莉奈が吹き出す。 紬も肩を揺らした。 「今の言い方、すごく優しいけど、なぜかお弁当の蓋を探してるみたいだった」 「え、失敗ですか」 「失敗というより、方向がちょっと違う」 莉奈は笑いながら、陽奈の言葉を受けてみせる。 「じゃあ私が母です。『遅くなるなら、冷蔵庫の中の煮物を温めて食べなさい』」 「急にお母さん役に入るのやめてください」 「だって、たらちねっぽくなってきたから」 紬が目を細めた。 「いいね。間違えた言い方が、家庭の匂いに寄っていく感じ。落語って、そういう偶然が面白いんだよ」 陽奈は首をかしげたまま、もう一度言った。 「お母さん、今日は夕飯が遅くなるから、先に食べててね」 今度は少し間を置き、声を落としてみる。すると、さっきよりずっと自然に聞こえた。 「おっ、今のはいい」 紬が言う。 「言い間違いは、直すより育てることもあるんだよ」 「育てるんですか」 「うん。たとえば今のなら、途中で『先に食べててね』の前に、もうひと呼吸あってもいい。聞いてる相手が、台所の景色を思い浮かべるくらいに」 「台所の景色……」 陽奈がつぶやくと、莉奈がすぐに横から口を出した。 「じゃあ次は鍋ね。『火は弱めにしておいたから、ふたを開けるときは気をつけて』」 「それ、完全に夕飯の連絡じゃないですか」 「大事でしょ、家庭は」 「たらちねって、こんな感じなんだ」 陽奈は思わず笑った。真面目にやるほどずれていくのに、そのずれがなぜか温かい。紬は発声の形を整え、莉奈は間で遊び、陽奈はそのあいだで声を探す。三人のやり方は噛み合っているのか、外れているのか、自分でもよくわからない。けれど、笑いが起きるたびに、声は少しずつ前へ出てきた。 「よし」 紬がノートを開き直す。 「次も、軽く一回。今度は言い間違いを怖がらずに、そこから膨らませよう」 「はい」 陽奈はうなずいて、もう一度息を吸った。部室の空気は、昨日より少しだけ近い。まっすぐな練習のはずなのに、どこか家の台所みたいにあたたかくて、陽奈はその不思議さを、まだうまく言葉にできずにいた。
落語部の昼下がり
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