八十を越えてからというもの、椅子から立つだけでも少し気合いがいるようになった。窓の外に山の稜線が見えるたび、心のどこかがそわそわと騒いだ。最後に一度だけ、あの山を見たい。そう思ったのは、朝の白湯がいつもよりぬるく感じた日だった。 家族に話すと、案の定、無理をするなと口をそろえた。だが主人公は首を振った。登るのは若い者の速さではなく、自分の速さでいい。そう言って、古い背負い袋の中身をひとつずつ点検しはじめた。水筒は二本、菓子は固い飴、そしてなぜか節分の豆まで入れた。山で迷ったときは音がするほうへ行くのだと、真顔で言い切るから、家族は返す言葉を失った。 さらに主人公は、登山靴のかわりに底のしっかりした布靴を選び、杖は一本ではなく二本にした。片方は祖父の形見、もう片方は台所のすみで眠っていた木の棒を磨いたものだ。両手にそれぞれ握れば、まるで長い年月の仲間が並んでいるようで、本人は満足げにうなずいた。 準備が整うころには、周囲の心配は半分あきれに変わっていた。それでも誰も止めきれなかったのは、主人公の目が子どものように澄んでいたからだ。室内で縮こまっていた背中が、その日だけは少しだけ伸びて見えた。山は遠い。けれど、どうやら本気で向き合う気らしい。そう感じた家族は、ため息まじりに笑い、しぶしぶ付き添いの段取りを始めた。 当日、玄関先で主人公は荷物の多さに文句を言われ、これは全部必要だと譲らない。段差につまずきかければ、年の功だと開き直る。出発前からにぎやかな一行に、朝の空気だけが静かに澄んでいた。山頂までの道のりが、どれほど騒がしくなるのか、そのとき誰もまだ知らなかった。
八十歳の山歩き
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