エラベノベル堂

八十歳の山歩き

全年齢

小説ID: cmnhd8m6f000d01o0tkwr1a4z

2章 / 全10

車に乗り込む段になっても、主人公は最後まで落ち着かなかった。足元に置いた袋を見て、あれはどこだ、これは本当に要るのかと、家族が何度も確認した。本人はそのたびに、山道で腹が減ったらどうする、喉が渇いたらどうする、寒くなったらどうする、と理屈とも願いともつかない言葉を並べる。しまいには、孫の持ってきた新しい杖を見て、軽すぎて信用ならんと鼻を鳴らした。見た目より重いほうが心は落ち着くのだという。誰も頷けないが、妙に筋は通っている気もした。  登山口に着くと、主人公は一歩目でさっそく躓きかけた。石の縁をまたぐだけの場所で、両手の杖が別々の方向へ泳いでしまう。手を貸そうとすると、まだ大丈夫だと強がるくせに、荷物の紐がほどけたのには気づかない。同行した息子は思わず笑い、主人公は振り返って、笑うなら荷を持てと命じた。その声だけは妙に張りがあり、若いころの商売の場で培った迫力がまだ残っているのだと皆に思わせた。  それでも歩き出してしまえば、主人公は不思議と粘った。休憩は早すぎると文句を言いながら、影を見つけると自分から腰を下ろす。水を飲めば、二口で足りるのに三口目を勧められて渋い顔をし、飴を口に入れると急に機嫌がよくなる。道の端に咲いた小さな花を見つけては、これは山のほうからの挨拶だと言い、木の根をまたぐたびに、これは試しだと勝手に名付けた。振り回されるはずの家族は、いつの間にかその調子に笑わされていた。  中腹の分かれ道では、案内板を見間違えた主人公が、こちらが近道だと胸を張った。だが進んだ先は細い沢沿いで、靴の底がしっとり濡れるばかりだった。普通なら不満が出るところを、主人公は足元を見ながら、これなら魚の気持ちがわかると呟いた。その一言で、険しい顔をしていた娘まで吹き出す。誰かが先頭を切るたび、誰かが後ろで支え、気づけば一行は主人公の歩幅に合わせていた。遅くとも、転ばず、笑いながら進めばいい。そんな空気が、少しずつ山道に満ちていった。  やがて霧の切れ目から、思いがけない岩場が現れた。そこだけぽっかり開けた眺めに、主人公は杖を握ったまま息をのむ。まだ山頂ではない。それでも、その景色は十分に胸を打った。主人公はしばらく黙ってから、これで今日はもう半分勝ったと言った。誰に勝ったのかはわからないが、その顔は子どものように晴れていた。

2章 / 全10

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