エラベノベル堂

八十歳の山歩き

全年齢

小説ID: cmnhd8m6f000d01o0tkwr1a4z

1章 / 全10

慎太郎は畳の上に置いたガイドブックを、老眼鏡の向こうからじっと見つめた。ページの端は何度もめくられたせいで、やわらかく波打っている。表紙には、青い空を背にした山の稜線が映っていた。 「決めた。わしは、人生最後の登山をする」 居間にいた家族が、一斉に手を止めた。茶を運んでいた娘が 「お父さん、何を言ってるの」 と眉をひそめ、孫は箸を口にくわえたまま固まった。 「無理だよ。危ないって」 「山なんて、若い人でも大変なのに」 次々に止められても、慎太郎はふんと鼻を鳴らした。背筋は少し丸い。それでも目だけは妙に澄んでいる。 「だからこそ、最後に行くんだ。今さら怖気づいてたまるか」 「今さらって年でもないでしょ」 孫のつぶやきに、慎太郎はむっとした顔をしたが、すぐに立ち上がった。ゆっくり、だが確かな足取りで居間の隅へ行き、敷いたマットの上に両手をついた。 「まずは準備だ。山は、気合いだけじゃ登れん」 「いや、そもそも登る前提なのがおかしいんだけど」 娘の声を背に、慎太郎は本に載っていた体操を真似るように、肩を回し、膝を伸ばし、足首をぐるぐると動かした。動きはぎこちない。だが本人は真剣そのものだった。息を整えながら、次のページへ視線を移すたび、口元が少しずつ引き締まっていく。 「ほら、こういうのは毎日だ。山に行く前に、まず室内で山に慣れる」 「室内で山に慣れるって、どういう理屈?」 誰かが笑っても、慎太郎は止めなかった。椅子の背に手を置いて片脚立ちをし、少しふらついては咳払いでごまかす。それでも何度か繰り返すうちに、動作は見違えるほど丁寧になった。 ページの隅には、靴の選び方や休憩の取り方まで細かく書かれている。慎太郎は指でなぞりながら、ひとつずつうなずいた。 「準備を笑うなよ。山は、笑う者から先に転ぶ」 「誰の受け売り?」 問い返されても、慎太郎は答えなかった。ただ、ガイドブックを胸に抱え、まるで長い間眠っていた約束をようやく思い出したような顔をした。その表情だけは、家族の誰も止められなかった。

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