慎太郎が石段を踏み越えた先で、風の匂いがふっと変わった。さっきまで足をいじめていた急坂が、急に静かになる。視界がひらけ、夕方の光が岩肌を金色に縁取っていた。 「……来たぞ」 慎太郎は息を整えるより先に、胸元の方位磁石をぽんと叩いた。孫が目を丸くする。 「ほんとに着いた」 娘も、しばらく言葉を失っていたが、やがて小さく笑った。 「お父さん、すごいじゃない」 「そうだろう」 慎太郎は得意げに胸を張り、それからザックを下ろした。中から取り出したのは、山へ来るには少し場違いなほど丁寧に包まれた茶菓子の包みだった。 「さあ、食え」 「え、今そっち?」 「頂上では、まず分けるものだ」 「普通は感想じゃないの」 孫の突っ込みに、慎太郎は平然と紙を開く。甘い香りがふわりと広がり、家族だけでなく、少し離れて景色を眺めていた人たちまで振り返った。 「ほら、遠慮するな。山のてっぺんは、腹が減る」 「勝手に配らないでくださいよ」 誰かが笑って言うと、慎太郎は楽しそうに目を細めた。 「配れるうちが花だ」 結局、茶菓子は輪になって回りはじめた。知らないはずの人まで、いつの間にか慎太郎の言葉に笑い、手を伸ばす。慎太郎はその様子を見て、満足そうにうなずいた。 「登った甲斐があったな」 「甲斐はそこなの?」 「もちろんだ。ひとりで立つより、こうして笑うほうがずっと高い」 娘は一瞬だけ目を伏せ、それから照れたように笑った。孫も、もうからかうのをやめている。山頂の空気は冷たいのに、そこだけやけにあたたかかった。 帰り道、慎太郎はさっきまでの苦しそうな顔が嘘のように軽い足取りだった。 「次はもっと簡単な山にしよう」 「それ、やっぱり行く前提なんだ」 「当然だ。今度は、もっと気楽でいい」 「気楽って言いながら、また本気で準備するでしょ」 孫の言葉に、慎太郎はにやりとした。 「それも山の楽しみだ」 家族の笑いが、下る道に沿ってこぼれていく。慎太郎は振り返り、夕焼けに沈む頂を見上げた。登り切ったというより、誰かと同じ歩幅を覚えたという顔だった。 「わしの最後の登山は、これで終わりじゃないな」 「え?」 「明日からが、新しい日常だ」 慎太郎はそう言って、誰よりも元気に先へ歩き出した。山の上で始まったその調子は、もう帰り道だけのものではなかった。
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80歳を超え、なかなか外出もままならない高齢のインドア男性が、人生最後の思い出づくりとして登山に挑み、周囲を巻き込みながら騒動を起こすコメディ
