尾根を越えた先で、道はようやく頂へ向かう一本の筋になった。木々はまばらになり、風が直接頬を撫でる。主人公は息を切らしながらも、これで終わりなら拍子抜けだと笑った。案内役があと少しですと繰り返すたびに、まだ少しあるのだろうと誰もが思う。けれど不思議と、その少しが遠く感じなかったのは、ここまでにもう十分な騒ぎをくぐってきたからだろう。主人公は飴をひとつ口に放り込み、甘さに目を細めたあと、ふいに立ち止まった。前方の木陰から、細い水音が聞こえたのだ。 寄り道のつもりで踏み入れた小道の先に、岩の裂け目から湧く清水があった。光を受けて揺れる水面は、磨かれた鏡のように澄んでいる。主人公は杖を抱えたまましゃがみ込み、しばらく黙ってその水を見つめた。やがて両手でそっとすくい、口をつける。冷たさに肩を震わせたあと、うまいと一言だけ落とした。その声は小さいのに、長く待ち続けた者の満足を宿していた。 案内役がここは地図にない泉だと言うと、主人公はむしろ地図のほうが古いのだろうと返した。山は紙の上より気まぐれで、こちらの都合など気にしない。だからこそ面白いのだと、妙に得意げだ。すると息子が、そろそろ本当の頂へ行かなくていいのかと尋ねた。主人公は泉の縁に手をつき、少し考えてから、頂は逃げんが、この水は逃げると言った。皆が笑う間に、本人はもう立ち上がっている。 泉の脇の細い踏み跡を抜けると、突然視界が開けた。そこは予定よりずっと低い場所のはずなのに、谷の向こうに町も川も薄く重なり、空の広さだけがやけに近い。主人公は思わず息をのんだ。山を見たいと思って来たのに、見られていたのは自分たちだったのかもしれない。そんな気がして、胸の奥が静かに熱くなる。振り返ると、家族も案内役も言葉を失っていた。 そのとき、案内役がふと古びた木札を見つけた。そこには小さく、見晴らし台と刻まれている。つまりここは頂上ではない。さらに札の裏には、もう一段上へ続く矢印がかすれて残っていた。主人公はそれを見て、またあるのかと呟いた。だが口調は不満ではなく、むしろ楽しげだった。まだ先があるなら、なおよい。そう言って笑う顔は、八十を越えた者のものではなく、遠足の続きを見つけた子どものようだった。 一行は再び歩き出した。寄り道で見つけた泉、見晴らし台の風、そして勘違いの先にあった景色が、全員の足を軽くしている。主人公は最初より背筋を伸ばし、振り返っては遅れるなと声をかける。けれどその声は命令ではなく、みんなで行こうという誘いに変わっていた。山の頂はまだ先だ。だが一番大切なものは、すでにここまでの道で手に入れていた。
八十歳の山歩き
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