慎太郎は古い方位磁石を胸元で押さえたまま、急な階段道を見上げた。さっきまで山小屋の前で茶を囲んでいた温かさが、まだ背中に残っている。だが目の前の石段は、遠慮なく高さを突きつけてきた。 「ううむ。これは、なかなかの相手だな」 「相手とか言わないで、ただの階段だから」 孫が笑いながら言うが、慎太郎はもう片足を上げていた。ところが次の一段で、膝がわずかに揺れる。 「おじいちゃん、休もう」 娘がすぐに支えようとする。慎太郎は首を振った。 「まだだ。まだ、足は言うことを聞く」 「聞いてない顔してるけど」 そのとき、孫が胸の前で持っていたスマホを差し出した。慎太郎が目を細めると、画面に映っていたのは、ずいぶん若いころの自分だった。肩に荷を背負い、無茶なほど細い道の前で、笑っている。 「これ、昔の写真。お母さんが送ってくれたんだよ」 慎太郎は息を止めた。そこにいたのは、今の自分よりずっと軽そうで、それでも同じ目をしている男だった。 「……こんな顔、しておったか」 「してたよ。無茶そうな顔」 娘も別の一枚を見せる。小さな山の前で、家族と一緒に並んでいる写真だった。慎太郎はその中の自分を見て、ふっと目を細める。 「これは、まだ誰かと山へ行く前の顔だな」 「違うよ。もう行ってる」 「そうか」 慎太郎は写真を見比べ、しばらく黙った。足元の階段は変わらず厳しいのに、不思議と肩の力が抜けていく。 「わしは、ひとりで登ったつもりになっていたのかもしれん」 娘が少し驚いたように顔を上げる。 「急にどうしたの」 「昔のわしも、誰かに笑われておったのだろうな。だが、こうして見ると悪くない」 孫がにやりとする。 「今さら気づいた?」 「今さらだ。だが、気づいたなら十分だろう」 慎太郎は写真から目を離し、階段の先を見た。風がひと筋、頬をかすめる。空はまだ高く、頂上は見えない。それでも彼の口元には、あの頑固な笑みが戻っていた。 「ここまで来たら笑って行くしかない」 そう言って、慎太郎は杖を握り直し、もう一段を踏みしめる。膝は少し笑っていたが、顔は本当に笑っていた。 「よし、最後の力だ」 「最後、って何回目の最後?」 「数えるな。山に失礼だ」 「山に謝る方向なんだ」 孫の突っ込みに、慎太郎は小さく笑った。家族もつられて笑う。写真はまだ手の中にあった。慎太郎はそれを一度だけ見下ろし、もう一度だけ深く息を吸う。 「行くぞ。わしの山は、まだ終わっておらん」 階段の上から、風が少し強く吹いた。慎太郎は肩をすくめ、笑みを崩さないまま、家族と並んで次の段へ足をかけた。
八十歳の山歩き
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