エラベノベル堂

居酒屋帰りの三人組

全年齢

小説ID: cmnhh6s51000001mo5ygzvfh0

1章 / 全10

街角の赤提灯が、雨上がりの路地にやわらかく滲んでいた。暖簾をくぐると、いつもの席に三つの影がある。誰も本名を呼ばない。いや、呼ぶ必要がなかった。渋い声で仕切る男は、いつの間にか社長と呼ばれていた。丸眼鏡の小柄な男は先生、笑うとやたらと肘で突いてくる大柄な男は熊さん。三人は毎晩のように顔を合わせ、互いの愚痴や昔話を肴にしていた。年齢も職業も、ぼんやりした輪郭しか知らないまま、それで十分だった。 社長は、店に入るとまず二人のグラスが空でないかを確かめ、自分が遅れて来た日でも、なぜか先に場を温めてしまう男だった。店主も常連も、あの人がいると不思議と空気が締まると言っていた。ところが、ある夜を境に、その席だけがぽっかりと欠けた。最初は、たまたま風邪でも引いたのだろうと、熊さんが大げさに肩をすくめた。先生も、急に引退したなら拍子抜けだねと笑った。だが翌日も、その次の夜も、暖簾の向こうから社長の足音は聞こえない。 三日目には、二人とも口数が減っていた。空いたままの椅子が、やけに目につく。店主に尋ねると、最近は昼間にどこかへ出かけているらしいと曖昧な返事が返ってきた。常連の一人は、地域の集まりで見かけた気がすると言う。別の客は、いや、あの人は商店街の催しを仕切っていたぞと首をひねった。話は食い違い、真相は見えない。けれど不思議なことに、どの証言にも、社長が忙しそうに駆け回っている気配だけは共通していた。 二人は気がつけば、店を出た足で商店街の掲示板を覗き込んでいた。張り紙には、シニア交流会、手芸教室、地域祭り準備会など、見慣れない文字が並ぶ。その端に、小さく写った顔があった。間違いない、社長だ。しかも居酒屋の社長ではなく、近所の集まりのまとめ役として、誰よりも元気に笑っている。熊さんがぽつりと漏らした。あいつ、酒場で威張ってるだけじゃなかったのか。先生は眼鏡を押し上げ、少しだけ誇らしそうに笑った。どうやら、あの男にはまだまだ別の顔があるらしい。

1章 / 全10

TOPへ