「おい、先生。遅いな」 親方が盃を置いて、入口の方をちらりと見た。いつもの鈴は鳴らない。カウンターの端で煮込みが静かに湯気を立てているだけで、三人目の席だけがぽっかり空いていた。 「遅いのはあいつの芸のうちだ。今さら驚くこともない」 先生はそう言ってみせたが、箸先が少し止まった。いつもなら社長が来れば、まず湯気を見て一言、次に店主へ文句、最後に二人へ茶々を入れる。その面倒くささが、今夜はまだ来ない。 「珍しいな。酒が進まん」 「お前もか」 「不思議だろ。あいつがいないと、こっちまで噛み合わねえ」 二人は苦笑した。親方が徳利を持ち上げ、先生が盃を受ける。けれど杯は空気みたいに軽く、喉を通っても熱が残らない。 「店主、社長は?」 先生が声をかけると、奥から布巾を持った店主が顔を上げた。 「今日はまだ見かけていませんよ。来るなら、もうとっくに顔を出してるはずですが」 「そうか」 親方は短く答えたが、その声はいつもより低かった。 「体の具合でも悪いのかね」 「さあな。あいつが休むなんて、雪より珍しい」 軽口を重ねても、空席は埋まらない。先生は笑おうとして、笑い損ねた。親方も口元をゆるめただけで、盃をあおる勢いが鈍い。 「変だな」 「何がだ」 「名前も顔も、ろくに知らん相手のことを、こうも気にするとは思わなかった」 先生は黙った。社長、先生、親方。ここでだけ通る呼び名で、何年も同じ席に座ってきた。互いの暮らしを深く聞かず、踏み込みすぎもせず、それがちょうどよかったはずなのに。 「だが、いないと落ち着かん」 親方がぽつりと言う。 「まるで、鍋から一つ具が抜けたみたいだ」 「うまいこと言ったつもりか」 「少しはな」 先生は鼻で笑ったが、すぐに視線を落とした。空いた椅子の背が、やけに目につく。さっきまで冗談の種だった席が、今夜は妙に静かだ。 店主がカウンター越しに、気をつかうような声を落とした。 「本当に、今日は見ていませんよ。ここに来る人はだいたい顔を出しますけど、あの人だけは……毎晩きっちり来ると思ってましたからね」 その言い方に、二人は顔を見合わせた。店主でさえそう言うのなら、やはり何かがおかしい。 「きっちり来るやつが、来ない夜か」 親方の独り言に、先生は小さくうなずく。 「胸がざわつくな」 「年のせいか」 「いや、そうじゃない」 答えながら、先生は初めてはっきり認めた。いつもの欠席なら、こんなに気にはしない。だが今夜は、ただの遅れではない気配がする。 二人はもう一度、空席を見た。そこだけ、寒い。店の温度は変わらないのに、椅子の上にだけ夜風が吹いているようだった。 「……呼びに行くか」 親方がそう言いかけて、口を閉じる。 「いや、場所も知らん」 先生も答えた。知っているのは、毎晩この店に来ることだけだ。顔見知りで、長い付き合いで、それで十分だと笑ってきた。その十分さが、今夜ばかりは少し心細い。 店主は何も言わず、空いた席の前に新しい小皿を置いた。来るはずのない客のために置かれたそれを見て、親方がため息をつく。 「社長のやつ、何してやがる」 先生は盃を持ったまま、しばらく黙っていた。喉の奥に残る熱が、いつもより薄い。 「さてな。だが、嫌な予感ってのは、外れてくれると助かるんだが」 そう言った瞬間、二人の間にあった笑いの癖がすっと消えた。代わりに残ったのは、初めて覚える小さな胸騒ぎだった。
居酒屋帰りの三人組
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