エラベノベル堂

居酒屋帰りの三人組

全年齢

小説ID: cmnhh6s51000001mo5ygzvfh0

1章 / 全10

「おい、先生。今日は妙に顔色がいいじゃないか」 「そりゃ親方、お前さんが遅れて来ると、こっちの酒まで薄くなるからな」 「ははっ、言うねえ。じゃあ私が来たからには、今夜は濃くなるってわけだ」 カウンターの奥で、湯気の立つ煮込み鍋が小さく鳴った。古びた居酒屋は、いつものように油と醤油の匂いが混じり合って、肩の力を抜かせる。三つ並んだグラスは、誰が見ても何十年も使い込まれた道具みたいに馴染んでいた。 「社長はまだか」 「どうせあいつは、来るなりお通しを見て文句を言う」 「文句を言うくせに、結局いちばん食う」 「だから社長なんだよ。食って回して、最後に帳尻を合わせる」 二人で笑うと、店のテレビの音が遠くなる。名札なんてない。財布の厚みも、仕事も、家の広さも、ここでは関係なかった。互いを社長、先生、親方と呼ぶだけで、なぜか話が通じる。 「なあ先生」 「なんだ親方」 「本名、覚えてるか」 「覚えているわけがない。覚えていたら、今ごろ面倒くさくなっている」 「だろうな」 親方は自分で言ってから、肩を揺らして笑った。先生も、箸を置いて鼻で笑う。 「それで十分だよ。名乗って深くなる縁もあるが、ここじゃ浅いままで長持ちする」 「浅いのに、長い。妙な話だ」 「妙で結構。妙だから毎晩続く」 その時、入口の鈴が鳴った。二人そろって振り向くが、入ってきたのは見慣れた常連だった。社長ではない。期待が外れたのに、少しほっとしたような、そんな空気がカウンターに流れる。 「おう、今夜も三人そろうと思ったのに」 親方が冗談めかして言うと、先生が盃を軽く持ち上げた。 「三人だろうが二人だろうが、ここの席は空けておくさ」 「違いない。社長が来たら、あいつのぶんまで食わせる」 「食わせる前に、まずは自分が飲み干せ」 そうやってまた笑う。互いの名も素性も、知りすぎないまま続く夜がある。知らないからこそ、気楽でいられる夜がある。 奥で店主が新しい皿を置きながら、何も言わずに湯気を立てる。その湯気の向こうで、三人の席だけがいつも通りに温かかった。

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