朝の空気はまだほどけきらず、駅前の通りには、通勤客の足音だけが乾いたリズムを刻んでいた。喫茶しおりの扉を開けると、豆を挽く低い音が店の静けさをやわらかく揺らす。新はエプロンの端を整え、湯気の立つポットを確かめながら、カウンター越しに外を見た。 開店準備は手慣れたものだった。コーヒーは香りを逃がさないよう、ひとつひとつ静かに淹れる。だが、ショーケースの中でひときわ目を引いていたのは、まだ焼きたての熱を残すたい焼きだった。朝早くから、通りを横切る人の視線がそこへ吸い寄せられる。カップを求めて入ってくるはずの客が、つい歩みをゆるめてケースを覗き込むたび、新は小さくメモを取った。 「見てるのは、やっぱりあっちか」 独り言に近い声だったが、書きつけた文字は妙に楽しげだった。たい焼きは喫茶店らしくないはずなのに、なぜか店の顔になっている。新自身、その奇妙さを面白がっていた。コーヒーを飲むための店で、最初に人の目を捕まえるのが甘い香りのする魚の形だなんて、少しだけ出来すぎている。 カウンターの端に置いたノートへ、通行人の仕草を簡潔に書き留める。立ち止まる角度、視線の落ち方、手にしたスマートフォンの持ち替え方。誰かに見せるためではない。けれど、新にとっては、そこに人の気配が滲んで見えた。 そのとき、扉の鈴が軽く鳴った。 「おはよう、新さん」 顔を出した常連の男が、店内を一目見て笑う。朝の散歩帰りらしく、ジャケットの肩にまだ外気の冷たさが残っていた。 「今日もたい焼き、元気だね」 「おかげさまで」 新がそう返すと、男はショーケースを指で示した。 「ここのたい焼きは、喫茶店なのに不思議だよな。つい、コーヒーより先に目が行く」 その言葉に、新はほんの少しだけ顎を引いた。まるで、それを待っていたと言わんばかりに。 「……でしょう?」 意味ありげなうなずきは、答えであり、まだ答えになりきっていない何かでもあった。男は苦笑しながら席につき、新聞を広げる。新はその横顔を見て、またノートに一行足した。人は甘い匂いに集まるのではない。誰かに話しかける理由を、無意識に探しているのかもしれない。
喫茶店のたい焼き事情
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